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【小林 栄(5)】 英世の活躍 自らの幸せ 〈10/26〉
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英世が恩師への御礼を込めて誠心誠意描いた小林栄の肖像画 |
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【7】 |
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野口英世の渡米に当たって小林栄は、親子の契りをして、残された英世の家族の面倒を見た。栄は「世界幾多の人を救うために、実に甚大なる神仏のご加護により、大名誉を挙げ世界の人を救う大発見を得んことを日夜祈っている」と英世の研究に期待をしていた。
師の期待に対して英世は「私の大業は世界を舞台とするものにて、且かつ世界の人道のため、日本の名声のため、米国の切望のため頑張りたいと思います。古来日本人にて世界の大勢を左右した人はなく、私の抱負はこの一点にあります。私の成功がこのまま行けば、後日にはノーベル賞を得ることは難しくないと考えています」と述べている。
ノーベル賞受賞ならず
英世は、栄の恩に報いるには世界に名を成すこと、そのためにはノーベル賞を受賞することが先決だと考えていた。事実、英世は数度にわたってノーベル賞候補になり、大正4年には有力9人の中に入ったが、第一次世界大戦が勃発ぼっぱつし、ノーベル賞委員会は大正6年まで該当者なしということにしたため、英世の受賞は見送られてしまった。その時の悔しさを、次のように栄に述べている。
「本年のノーベル賞の授与も或あるいは中止になりましょう。仮に授与があったとしても、交戦国の日本の学者にはスウェーデン国が中立国としての義務として避けるはずです。とにかく私は、目下のところノーベル賞は絶望となりました」
これに対して栄は「戦争が早く終わるように祈っています。それにしても貴方あなたが大きな仕事をしていることは、私たちにとって大変幸せなことです。貴方が世界人類のため大きな使命を全うし、名誉の受賞をすることを祈っています」と、これにめげず頑張るよう応援メッセージを送るとともに、アメリカで活躍する英世の姿が自らの幸せと考えていた。また英世の活躍を郷里の人たちに伝えたいと考えて、「君の10分間の手紙は我われらに数日の喜びを与えるものです」と英世の動向を知らせるよう再三再四にわたって要請した。
栄はある日、徴兵検査の学力試験に携わったことがあった。問題は尋常小学校卒業の者でもやさしかったにもかかわらず、そのほとんどが解答されていないことに衝撃を受けた。この実情を目の当たりにした栄は、地域の振興は人づくりにあると確信し、自力でも中学校程度の学校をつくろうと35年間務めた教職を辞職した。
このことを英世にも相談、英世は栄の計画に賛同、大正4年に帰国した英世は、学校名「猪苗代日新館」の額を揮毫きごうした。日新館は猪苗代の人たちの協力もあって、大正5年12月開校の運びとなり、栄は自ら館長を務めた。
優秀な人材を多く輩出
日新館は私立経営であったため、経済的な理由から運営が難しく、栄は公営に移管したいと考えたこともあったが、英世は「日新館は学育より徳育を主眼とする学校なので、創立者の人格と密接の関係があるもので、公立化するものではありません」と主張、毎年運営資金を寄贈するほかに、1000円の大金を送ってきた。栄は青年教育に使えるように、英世からのお金を基本として基金を設けた。この学校は栄が亡くなると閉校されるが、卒業生からは地域発展の原動力となった優秀な人材を多く輩出した。
昭和3年6月29日、東京・丸の内にある日本工業倶楽部で開かれた英世の追悼会後の懇親会で「野口英世博士記念会」の設立が決定、昭和14年に野口英世記念館が開館されるが、栄はその実現に尽力した。英世を少年時代から見守ってきた栄は、野口英世記念館開館の翌年に自らの使命を終えたかのように80歳の人生を閉じた。
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◇ひとこと◇
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猪苗代日新館卒業生で猪苗代町の土橋成記さん(82)
昭和12年の春から2年間、小林栄先生のもとで学んだ。先生は「野口博士は耐え忍んで障害を乗り越えた」と話し、忍耐の大切さを説かれた。向学心に燃える同級生ばかりで、刺激を受けた。その時の経験のおかげで、戦中・戦後を乗り越えることができた。 |
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