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癒やしの音楽家
生誕100年記念
癒やしの音楽家
福島県師範学校附属小学校5年、古関は前列から数えて3列目の右から2人目。前列右端は古関を音楽開眼させた遠藤喜美治先生(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(1)2009.01.12

レコードを聞き独学で学ぶ
家業は呉服屋
 古関は1909(明治42)年8月11日、福島市大町にある市内有数の呉服屋「喜多三(きたさん)」に生まれました。音楽好きの父は従業員のために、大正初期ではまだ珍しい蓄音器を購入、余暇にはいつもレコードをかけていたため、古関は浪曲、民謡、吹奏楽を聞いて育ち、ほとんど独学で音楽を学びました。
 古関が県師範附属小学校に入学した16(大正5)年頃(ごろ)は、第一次世界大戦の真っただ中で、「東北の田舎の、それもまだ幼い私は、あいかわらず好きなレコードを聞きながら、絵を描いたりするのに夢中であった」(自伝『鐘よ 鳴り響け』主婦の友社)と述べています。
 小学校3年の時にクラス替えがあり、卒業までの4年間の担任は遠藤喜美治(きみじ)先生でした。この先生がまた大変な音楽好きで型破りな教え方をし、古関はすっかり先生のとりことなりました。唱歌が最も楽しみな授業だったそうです。

生涯5000曲
 古関は昭和歌謡を代表する「長崎の鐘」や「君の名は」「オリンピック・マーチ」「モスラの歌」など数多くの名曲を残し、89(平成元)年に逝去しました。生涯で作曲した数は、約5000曲といわれ、多くの人々に慰めと活力を与えました。
   
癒やしの音楽家
3歳の古関裕而(古関裕而記念館提供)
    メ  モ                                     
作曲の秘密 
 ある人から「古関さんの作曲法は」と質問された。古関は3つの机に3つの楽譜を置き、それらを同時に完成させるとともに、作曲の時は楽器を一切使用しなかったそうです。古関の頭の中には絶えずメロディーが流れていたといえるでしょう。

 


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