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抒情歌謡の白眉「山桜」
生誕100年記念
抒情歌謡の白眉「山桜」
「ちりめん屋」の旧居。古関はここで2年間の下宿生活を送り、将来の基礎をしっかり固めた
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(4)2009.02.02

感覚を磨いた川俣での生活
 1928(昭和3)年、福商を卒業した古関は、数カ月間は音楽浪人を決め込んでいましたが、いつまでもブラブラしているわけにもいかず、伯父(母ヒサの兄)の経営している川俣町の川俣銀行に就職することになりました。
 川俣町といえば、かつては情緒豊かな「絹織物の町」として知られており、町の中央を流れる広瀬川のほとりには白壁の機屋(はたや)が並び、昭和初期には、輸出用の花形羽二重が地元経済を支える産業として全盛を誇っていました。絹織物は当時世界一の産地といわれ、ナイロンが出回るまで「川俣町の絹が女性の足を包んだ」とさえ言われました。
 古関は同年の5月頃(ごろ)から30(昭和5)年の5月までの満2年間、川俣銀行に勤務しています。伯父の武藤茂平の家は「ちりめん屋」と号し、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)の醸造を業としていましたが、そこに居候として世話になり、毎日瓦町にあった銀行まで通ったといいます。彼は一番末席で、銀行が暇な時は、帳簿の間に五線紙をはさんでは作曲に明け暮れたと述懐しています。

■芸術的感興の源泉
 川俣町は周囲を山に囲まれ、作曲に没頭するには絶好の環境でした。古関の前には常に竹久夢二や北原白秋、三木露風などの詩集が紐(ひも)解かれ、古関の芸術的感興をそそっていました。露風の「山桜」の「白いさくらよ故里の/山の峠の茶屋に咲け」とのフレーズは、まさに川俣町の山々や街道筋を歌いこんだ感がして、古関のお気に入りの作品だったに違いありません。
 筆者にとっては、47(昭和22)年の「白鳥の歌」を叙情歌謡の男歌の名曲とすれば、「山桜」はそれとは対照的な女歌の白眉(はくび)といえるほど、気品が漂い、詩情豊かな曲なのです。
 古関は露風以外にも、夢二の「柿」や白秋の「風のとり」など、日本の誇る叙情詩の数々をほぼ毎日のように曲として仕上げていきました。しかしこれらの音源は少なく、なかなか聞く機会がありません。古関裕而記念館などで積極的に取り上げていただければと思います。
   
抒情歌謡の白眉「山桜」
「山桜」色紙(古関裕而記念館提供) 
    メ  モ                                     
三木露風 
 1889(明治22)年、兵庫県生まれ。早稲田大、慶応大中退。1909(同42)年、「廃園」を刊行し象徴詩人として名を挙げた。北原白秋とともに活躍、「白露時代」と呼ばれた。大正時代は「赤い鳥」に作品を発表、64(昭和39)年逝去した。75歳。

 


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