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【北里柴三郎(1)】 世界的研究者 名声博す   〈11/27〉
 



北里柴三郎(右下)と伝染病研究所
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 明治31年4月、21歳の野口清作は、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所へ入所した。清作が若松の会陽医院で書生をしていたころ、柴三郎のもとで医学研究をしていた野川二郎医学士が右手右足が不自由にもかかわらず、普通の人以上に仕事をしていることを知った清作が、己の手の不自由さを克服して医師になる希望を得た。当時の清作にとって、柴三郎の名前だけは知っていたが、雲の上の人であった。その柴三郎のもとで働けるとは、夢心地のようであったろうと推測する。

 研究員には東京帝国大学出身者が占めていて、清作と同じく帝大出身でない秦佐八郎とともに、特別に取り扱いされた入所であった。当時の研究所は、北里所長がペスト菌を発見して、海外にも広く知られており、日本での細菌学研究での首座を確保していた。

 柴三郎は嘉永五(1852)年、肥ひ後ご国のくに阿蘇郡小国郷北里村(現熊本県阿蘇郡小国町北里)で代々庄屋を務める家柄に生まれた。熊本医学校から東京医学校(現東京大学医学部)を経て、ドイツに留学、ベルリン大学でロベルト・コッホに師事した。留学中に破傷風菌の純粋培養に成功、またその毒素に対する免疫抗体を発見、それを応用した血清療法を確立して、一躍世界的な研究者として名声を博していた。

 見習助手と図書館監督

 研究所での清作は、正式所員という地位ではなく、見習助手と図書館監督を兼務したものであった。従来の野口英世の伝記などでは、「ほかの研究員のように研究に専心できなくて、図書館係に不満を持ち、生活が堕落してしまった」との記述も見受けられる。これは、清作が英世に改名するきっかけとなった坪内逍遥著『当世書生気質』に登場する「野々口精作」が堕落した生活ぶりをしていると書かれたことと混同されているためであろう。

 実際には、図書館係に就いた英世は大変に喜んでいた。図書館には世界各国の原書の文献が集められ、居ながらに外国の情報を得ることができたし、世界各国から研究所に問い合わせが来るたびに、英世の最も得意とする英文の返事を書く仕事は、英世のもとに持ち込まれてくる。猪苗代高等小学校の恩師小林栄への手紙にも「この仕事は極めて責任が重く、且かつ精密を要すものです。北里博士が私の腕を試していると思います」と認したためており、英世はこの仕事を張り切って行っていたことがうかがえる。

 研究所での清作は、基礎医学的素養がなかったので、先輩研究員から親切に指導を受けていた。一方では清作が外国語に秀でていたので、所員の求めに応じて英語などを教えていたようだ。柴三郎は、語学が堪能であった清作を高く評価し、外国から研究所を訪れる人の通訳としても登用していた。例えば、明治31年10月、イギリスの上海居留地衛生局長ドクトル・スタンレーが来日、研究所を訪れた際に柴三郎の通訳として、東京各所を案内した。

 外国人通訳として案内

 明治32年4月には、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学のシモン・フレキスナーやフレデリック・ゲーをはじめ数人の人たちがフィリピン群島における米軍兵士の衛生視察に派遣され、その途上日本に滞在、研究所を訪れた。一行を迎えた柴三郎は、大阪に出張しなければならなかったので、語学の堪能な清作に一行の東京市内の衛生施設案内を依頼する。フレキスナー一行と一緒に過ごした数日間ですっかり意気投合した清作は、フレキスナーにアメリカ留学を打診する。
◇ひとこと◇

  北里研究所北里柴三郎記念室の薬学博士大岩留意子さん(64)

 北里は庄屋の生まれだったが明治維新で生活の基盤が崩れ、大学時代はアルバイトで自活する苦学生だったため野口のような努力家には特に目をかけていた。北里は弟子の長所を伸ばす指導をして弟子らに慕われ、北里研究所の創立につながった。
 


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