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【高峰譲吉】 日米親善、民間から先導  〈1/8〉
 
東郷平八郎元帥の歓迎会。左から5人目が高峰譲吉、8人目が英世、左側中央に立っている軍服姿が東郷元帥
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 ニューヨークのウッドローン墓地には2人の日本人の墓がある。1人は野口英世であり、もう1人が高峰譲吉である。2人ともアメリカ人女性を妻としていることでも共通している。

 英世と譲吉との出会いは、明治37年、セントルイスで開催された万国学術会議に出席するため渡米した北里柴三郎の紹介だった。小林栄に出した手紙に「高峰博士とは北里博士がニューヨークに来訪した時に、丁寧なる紹介をいただきました。しかもまだ一度も訪問いたしておりません」とある。

 英世はこの年の9月、デンマークへの留学を終え、ヨーロッパ各地での講演や視察をし、帰米したばかりであった。また、ロックフェラー医学研究所の一等助手となった英世は、帰米早々、研究所の諸準備に追われて多忙を極めていたようだ。

 譲吉は嘉永7(1854)年、加賀藩の御典医の長男として富山県高岡市に生まれる。英世とは22歳違いである。大阪の適塾で医学を学んだが、理学に関心を抱いていた譲吉は、明治5年に上京、工部省工学寮(現東大工学部)を卒業後、英国に留学し農商務省に入った。明治17年、ニューオーリンズ万国博覧会へ政府代表として派遣され渡米、滞在中にキャロライン・ヒッチと婚約する。明治23年に再渡米、タカジアスターゼの抽出に成功、消化剤として発売、日本では三共商店(現三共株式会社)を創立、初代社長となる。

 当時、日本とアメリカの間には、日本人労働者のアメリカへの大量移入問題などを発端として、日本人排斥運動が激しくなり、日米関係が思わしくなかった。折しも日露戦争の行方も懸念された当時、譲吉はセントルイス万国博覧会への出展を進め、外債発行などの資金調達に尽力した。

日本倶楽部などを創設

 譲吉は民間外交の重要性を熟知し、より親密な日米関係の構築を願い、明治38年にはニューヨークに日本倶楽部(現日本クラブ)や日米各界の著名人が集う社交団体「ジャパン・ソサエティ」(現日本協会)を創設、初代会長となる。デンマークから帰米した英世もこの会員となり、譲吉と親交を深めることになる。英世が日本人の地位向上にも絶えず気にかけていたのには、譲吉との交際が少なからず影響していると思われる。

桜の寄贈では仲介の労

 譲吉は日本人の心の象徴ともいえる桜を、日米友好の懸け橋にしようとニューヨークとワシントンに寄贈する仲介の労をとった。ニューヨークの「さくらパーク」とワシントンの「ポトマック河畔の桜」ともに今に受け継がれている。ニューヨークの「さくらパーク」はニューヨーク市がロックフェラーから土地を購入、ロックフェラーが整備した。この仕事に英世がどのようにかかわったかは不明であるが、ロックフェラーが関与していることを考えれば、想像ではあるが、何らかの役割をしたことが考えられる。

 明治44年8月、英国ジョージ五世の戴冠式に参列した日露戦争の凱がい旋せん将軍として知られる東郷平八郎元帥がアメリカのタフト大統領とルーズベルト前大統領を訪問。その後、ニューヨークでの歓迎会が開かれ、日米両国の要人が参集した。その時に、譲吉とともに英世も出席している。

 さらに、大正3年、パナマ運河開通式に日本全権大使として参列した会津出身の出羽重遠海軍大将の歓迎会が開かれていて、英世も参列している。そのほか、数多くの催しに、譲吉とともに英世も参加している。

 譲吉は大正11年に68歳で亡くなり、ウッドローン墓地に埋葬された。アメリカの有名人とともに、日本人の2人はここに眠っている。
 


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