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   【八子弥寿平】  幼なじみ一家あげ支援 〈1/15〉
 

明治25年、手の手術後、退院記念に撮影した清作㊨と八子弥寿平。円内は弥寿平の父留四郎
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  野口清作(後の英世)から猪苗代高等小学校で同級生であった八子弥寿平に出された手紙が多く残されている。その中の一通で明治31年6月13日付の手紙は文字数が1400字にも及ぶもので、念願の伝染病研究所へ入所したばかりであったが、外国での研究を目指していた清作の心境が述べられていて興味ある。一部を紹介してみる。

 「明治31年11月中、米国へ向かって出航、米国の博士の家に寄寓きぐうして大学を卒業しドクトルの免許状を得て、暫時開業金を儲もうけます(学資金など)。米国へ出発時300円持参、若もし都合よければ300円以上、悪ければ少々以下。米国に留学すること1カ年又または1カ年半と定める。明治33年ころ米国より独逸ドイツ国に渡航、ここで充分学術を研究し、独逸国でドクトルの免状を取る決心です。独逸留学2、3カ年間の学資金は自分で都合します」

 弥寿平の父留四郎は猪苗代町でも指折りの素封家であり、息子弥寿平のところに出入りする清作には特に関心を持ち、自分が育て上げたいと考えて面倒を見た。清作は、そんな弥寿平と家族の思いに精いっぱい応えようと、その思いを書いたようである。

 清作と弥寿平とのかかわりを述べてみる。

 清作が手の手術を受けた時に、高等小学校の生徒や先生たちは清作に援助の手を差し伸べたが、弥寿平もその例外ではなかった。しかも、清作が退院の日、わざわざ若松まで出向いて見舞いに行き、帰りに写真館で記念写真を撮って2人して猪苗代に帰った。当時、写真は高価なものであったので、費用は弥寿平が支払ったと思われる。この写真は、清作を写した最初のものとなった。

 清作が若松での修業中でも、上京して渡米するまでも、弥寿平と八子家との交流は続いている。

 渡航費用の捻出を承諾

 明治33年6月、清作が中国から帰国し、その後、渡米のための金策に駆けずり回っている時、いよいよ困り果てて弥寿平に相談してみようと猪苗代に帰郷した。高等小学校より清作に望みをかける弥寿平と八子家にとって、ここが清作の正念場だと考え、清作の希望する渡航費用を捻出ねんしゅつすることを承諾した。

 希望に胸膨らませた清作は、恩師小林栄のもとを訪ね、その旨を話したところ、「自らの努力なしに安易な方法に頼るようでは、渡米しても成功しないだろう」と諌いさめられ、清作は弥寿平からの厚意を辞退することになったエピソードもあった。

 大正4年、15年ぶりにアメリカから帰国した英世を、弥寿平は郡山駅まで出迎えた。見違えるほどになってしまった英世ではあったが、弥寿平が声を掛けると、英世は幼いころの清作の顔に戻った。

 郷里猪苗代に帰った英世は、多くの人たちからの歓迎を受けるが、中でも猪苗代高等小学校時代の友人たちの歓迎会において「竹馬会」を結成、以後の交友を約束、寄せ書きをした。弥寿平は「熱心成功基」と書いた。また、英世が帰米した後、英世を励まそうと竹馬会の人たちが寄せ書きをアメリカに送ったが、そこには「前途遼遠」と書き、英世のさらなる活躍に期待をした。

 英世は、世話になった八子家のため、持ってきた土産の中では一番高価な金時計を贈った。同じものはほかに小林栄と血脇守之助だけであった。

 記念館の開館にも尽力

 昭和3年、英世が殉職したことを知らされた弥寿平は、再び会えることを信じていただけに肩を落としてしまった。東京で開かれた英世の追悼会にも参列、野口英世記念会の一員として野口英世記念館開館に尽力していたが、志半ばにして昭和9年、突然亡くなった。英世と同じ明治9年生まれ、58歳の生涯であった。
◇ひとこと◇

八子弥寿平の孫で、野口英世記念館長の八子弥寿男さん(69) 

 祖父は、自分が生まれる4年前に亡くなったが、父からは豪快な人物だったと聞いた。野口博士を支援したのは、その才能に心底ほれ込んでいたからだと思う。博士の出世が自分にとっても最大の喜び・楽しみだったのだろう。
  
 


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