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   【山内 ヨネ】   告白断った初恋の女性  〈1/22〉
 

大正4年、英世が帰郷した時、北会津郡役所前で撮った医師会との記念写真。前列中央が英世、3列目左から4人目が山内ヨネ
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 山内ヨネは会津(若松)で開業した最初の女医といわれている人だが、野口清作(後の英世)の初恋の女性として知られている。

 ヨネは医師であった山内立真の1人娘として、明治15年、若松に生まれた。立真は日本医学界の泰斗・佐藤尚中の門人で、ヨネが7歳の時に亡くなった。母の千代はヨネを医師にして山内家を再興させたいと願っていた。母は、若松に設立されたばかりの私立女学校にヨネを通わせていた。ヨネは、医師になることは自分の天命であると考え、その目標に向かって勉学していた。

 漢文、外国語の手紙届く


 そんなある時、ヨネの家に差出人の名前がない1通の手紙が投げ込まれた。ヨネは心当たりがないので、母とも相談して女学校の先生に届け出た。その後も、難しい漢文の手紙のほかに外国語で書いた手紙も届いた。

 ヨネは英語を習っていた日本キリスト教団の藤生金六牧師に手紙を見てもらったところ、藤生牧師は一目見ただけで「これは実にうまくよく書いてあるが、今この若松市内の青年でこのような文を書くことができるのは、会陽医院の野口君しかいないだろう」と、清作を呼んで問い詰めると「この手紙を書いたのは私に間違いございません」と素直に白状したので、清作に注意をして手紙を返したということである。清作の淡い恋に終止符が打たれた。

 医師になるため若松で勉学に勤いそしんでいたヨネは、従兄弟(いとこ)の菊地良馨の斡旋(あっせん)で上京、順天堂医院の看護婦となったが、医師を目指し済生学舎に入学した。同じころ、上京していた清作はそこでヨネと出会い、再び恋の炎に火が付いた。

 ヨネは当初清作を避けていたが、同郷の好(よしみ)で時々話すこともあり、そのうちにヨネは清作から難解な医学書について教えてもらうこともあった。ヨネの動向を知りたいと考え、清作は良馨と親しくなり、様子を度々聞いていた。

 清作は英世とも改名、検疫医官補となった姿をヨネに見せたいと考え、中国へ赴任することになった時、ヨネの下宿に制服を着て訪ね、胸の内を告白するが、見事に振られてしまうことになる。

 若松で開業、最初の女医

 ヨネは、英世が思いを寄せることとは無関係に、自らの目的である医師試験に全力を集中した。医師の資格を取ったヨネは、意気揚々と若松に帰り、旧宅に「三省堂」の看板を掲げ、待望の医院を開業した。当時、若松で開業していた女医はヨネが最初の人ともいわれており、女性が人力車を走らせて往診する姿は、市民の間ではたちまち評判となった。

 ヨネは母の勧めにより福良村(現郡山市湖南町)出身で、11歳年上の医師森川俊雄の後妻となり鎮雄、歌子、大助、隆吉の四児を産む。ニューヨークの英世のもとに、良馨からヨネが結婚したことが知らされた。驚いた英世であったが、「ヨネの夫を見返すだけの人間になってみせる」と良馨に返事を書いたという。

 大正四年、英世は15年ぶりに帰国することになり、夫に先立たれ、再び聴診器をとっていたヨネ宅を訪ね、自らの講演会に出席を願った。ヨネは請われる通り講演会に行き、閉会後に行われた記念写真の撮影に加わった。その後、英世の宿泊場所であった東山温泉の新瀧にヨネが訪問、その時、英世はヨネの子どもの留学の心配をしたと伝えられている。ヨネは英世の厚意をあっさりと断った。

 それからの2人は生涯2度と会うこともなかった。英世はニューヨークを訪ねる会津の人たちに会うと、ヨネの近況を聞いていたという。ヨネは医院を1人で切り盛りして、昭和20年、64歳で亡くなった。
 


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