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 【イスラエル・クリーグラー  ともに黄熱病研究 尽力〈2/19〉
 

メキシコでの黄熱病研究者とともに。前列左端がクリーグラー、その右が英世
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  フランスが黄熱病とマラリアのため撤退したパナマ運河建設はアメリカが引き継ぎ、1914(大正3)年に開通にこぎ着けた。中南米での諸都市の安全と公衆衛生の向上への関心が高まる中、当時、中南米では黄熱病の大流行の兆しが予測されていた。

 そこで、ロックフェラー財団は黄熱病対策のチームを、その中心地と考えられていたエクアドルのグアヤキルに派遣した。ノースウエスタン大学の医学部長であるアーサー・ケンドールを隊長として、臨床担当はチャールズ・エリオット、化学担当はハーマン・レーデンボーで、いずれもノースウエスタン大学の人であり、細菌学担当が野口英世であった。1918(大正7)年6月、英世はグアヤキルに到着、わずか9日目に病原体を発見、血清とワクチンを作り多くの人命を救った。英世の功績に対してエクアドル政府は、陸軍軍医監と陸軍大佐の称号を贈り、感謝の意を表した。

メキシコで流行、政府招請

 黄熱病が終息したかにみえたが、翌年になると、メキシコのユカタン半島で流行した。メキシコ政府は英世を直接招請した。英世はすぐにメキシコに行ってエクアドルの病原体と同一かどうか確かめてみたいと思ったが、ロックフェラー医学研究所では、メキシコの政治情勢が悪化していたので、英世のメキシコ行きに難色を示していた。

 一方、エクアドル調査隊のメンバーであったキューバの黄熱病専門家のレブレドが、流行が起きると直ちにユカタン半島に飛んだが、病原菌を発見できないでいた。そのことを聞いた英世は、なお一層現地に赴くことに意欲を燃やした。

 ロックフェラー医学研究所で英世とともに黄熱病研究に当たっていたのが、ポストドクトル・フェロー(博士号所持下級研究員)のイスラエル・クリーグラーであった。英世は、メキシコへは彼を同行させる予定であった。

 クリーグラーはポーランドからのユダヤ系移民の子として1889(明治22)年に生まれ、コロンビア大学医学部を苦学して卒業。その後、ノースウエスタン大学で研修した。同じユダヤ系ということで、1916(大正5)年、ロックフェラー医学研究所に入所した。身長が150㌢にも満たず、英世より一回り小さい体形であった。英世を大変尊敬しており、クリーグラーは、英世と同行できることはこの上もない名誉と考えていた。

死亡した患者の血液入手

 1919(大正8)年12月になり、まずクリーグラーが先発隊として出発した。クリーグラーがメキシコのメリダに到着した時には、黄熱病の流行は事実上終息しており、黄熱病で亡くなった患者の血液をやっとのことで入手して研究を行った。英世は一週間遅れて行ったが、クリーグラーが準備していた試験材料を得て、エクアドルでの病原菌と同じものを確定することができ、研究を成功に導いた。

 メキシコでの研究が一段落すると、英世はいったんニューヨークに戻ったが、クリーグラーは引き続きペルーに赴き黄熱病に取り組んだ。

 ペルーでの黄熱病の流行地が、首都のリマから舟で3日はかかる北部のピウラであったが、クリーグラーはリマで実験用具を調え、現地に赴いた。

 さらに約百㌔も奥地のモロポンに黄熱病が発生したという報告を受けると、そこまで足を運んで、後から来る英世のために準備をした。このように英世が行った中南米での黄熱病との闘いでは、クリーグラーの存在は欠かせないものであった。

 クリーグラーは1920(大正9)年秋、パレスチナに赴き、エルサレムのヘブライ大学の細菌学兼衛生学教授となり、パレスチナからマラリアを駆逐するのに功績があった。1926(昭和元)年には、黄熱病研究での英世の成果を確かめに、アフリカに赴いている。1944(昭和19)年、パレスチナで亡くなった。
 


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