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嗚呼神風特別攻撃隊の歌
生誕100年記念
ガダルカナル島展に出品された、現地収集品(平成15年11月24日撮影)。ガダルカナル島は「餓島」と呼ばれ、後方支援のないまま多くの本県出身兵士が餓死したという
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(16)2009.05.18

戦時歌謡で国民の士気 鼓舞
 1943(昭和18)年に入り、日本軍は、次第に敗色濃厚となりました。
 2月には本県人が多数従軍したガダルカナル島からの撤退も余儀なくされ、5月にはアッツ島で約2600人の日本兵が玉砕しました。翌44年3月に始まったインパール作戦では日本軍は壊滅的な打撃を蒙(こうむ)りました。同年10月、米軍がレイテ島への進攻を開始した頃(ころ)、「我(わ)が国の航空力はわずかに240機程度」(丘十四夫『歌暦五十年』)しかなかったのです。
 新任の第一航空艦隊大西瀧治郎中将は特別攻撃隊の編成を発令、劣った航空力で、優れた米艦隊を攻撃するには、体当たりでいくしかないという無謀な作戦がたてられ、「神風攻撃隊」(半藤一利「昭和史』)が結成されました。
 その頃、読売新聞社は国民の士気を鼓舞するため、新作戦時歌謡を委嘱制作することにしました。野村俊夫と古関裕而はその求めに応じ、10月20日「鳴呼神風特別攻撃隊の歌」(歌三鷹淳)を制作しました。「もうこの頃になると歌った歌手も記録に残らず、その後、ガリ版刷りの譜面が見つかり、正式にレコーディングされたのは昭和44年のことであった」(「古関裕而全集」解説)と書かれてあります。

■厳粛な鎮魂歌
 戦局が悪化の一途を辿(たど)る中での歌だけに、悲壮かつ厳粛で「無念の歯がみこらえつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ」の歌詞はまさに鎮魂歌というべきものだったと思われます。しかもこの特攻隊は、「兵士たちの志願」(半藤一利『昭和史』)という形で進められ、「戦死者は海軍2632人、陸軍1983人の計4615人」(同書)に上ると言われています。
 しかし、日本の敗戦は日一日と迫っており、硫黄島玉砕で約2万人が戦死し、3月10日の東京大空襲では、死者・行方不明者が10万人を超えました。4月1日からの沖縄上陸、総攻撃の後、8月6日に広島市、9日には長崎市に原子爆弾が相次いで投下され、合わせて約30万人近い生命が奪われるという大惨事となりました。
    メ  モ  
 第二次世界大戦 
 1939年のドイツのポーランド侵攻に始まり、45年の日本の無条件降伏まで連合国と枢軸国陣営で争われた戦いをいいます。約2500万人の兵士が戦死し、民間人もそれ以上犠牲となりました(諸説あり)。日本の参戦した太平洋戦争も含まれています。

 


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