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白鳥の歌
生誕100年記念
昭和24年ごろの古関家(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(18)2009.06.01

若山牧水の短歌、名歌曲に
 1945(昭和20)年10月、日本放送協会の独活山万司(うどやままんじ)から「古関裕而と菊田一夫で戦後初のラジオ・ドラマ『山から来た男』を担当してもらいたい」との連絡を受け、戦争で途絶えていたコンビが復活しました。
 日本におけるラジオ放送は、1925(大正14)年3月、社団法人東京放送局によって仮放送が開始されたことに始まります。翌年、日本放送協会が設立され、戦前は(JO)AKと呼ばれていましたが、46年3月からNHKのサインを用いるようになりました。庶民の娯楽は映画やラジオ、芝居などごく限られた範囲だったため、古関のラジオ出演はまさに晴れ舞台への登場といえました。
 当時、日本ではどのような出来事があったのでしょうか。47年2月にはマッカーサーの命令で全官公庁のゼネストが中止され、4月には男女共学、六三制がスタートしました。また、5月には現行憲法が施行され、初の社会党内閣が誕生しました。

■自信作「白鳥の歌」
 47年、NHKは連続ラジオ・ドラマ「音楽五人男」を制作、その主題歌として名曲「白鳥の歌」と「夢淡き東京」が誕生しました。
 「白鳥の歌」は、若山牧水の「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」に古関が曲をつけ、藤山一郎、松田トシが歌いました。「オリンピック・マーチ」と並ぶ古関の自信作の一つです。この曲は、「短歌を歌曲にすることは大変難しい。短音階の抒情(じょじょう)をよく生かした曲であり、映画の主題歌として発表されたため広く歌われた」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)もので、教科書にも採用されました。
 牧水の「白鳥」は最初、「はくちょう」を意味していましたが、歌集に収める時は「しらとり」と読ませ「鷗(かもめ)」を指すようになったといいます。
 また、3番の歌詞「幾山河」は1907年、早稲田の学生だった牧水が徒歩で帰省中に中国山地を歌ったもので、人間の心の、いかんともしがたい寂しさや孤独感に打ち勝つ姿勢を歌いこんだ、万人愛唱の名短歌です。
    メ  モ  
 若山牧水
 1885(明治18)年、宮崎県東郷村の医者の長男として誕生、延岡中学を経て早稲田大英文科に進みました。全国各地を旅して短歌を詠み、43年の生涯で7000首を詠んだといわれています。酒の歌を数多く作ったことでも有名です。1928(昭和3)年永眠。

 


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