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とんがり帽子
生誕100年記念
とんがり帽子
仕事を終えてNHKを出る、当時38歳の古関。昭和22年12月27日(古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(19)2009.06.08

救済の音楽 後輩の応援歌に
 「なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう。幼い日に不遇であり、寂しさを味わった菊田さんならではの詩である」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と、古関は「とんがり帽子」の歌詞を絶賛しています。
 私がその曲に出合ったのは、1957(昭和32)年、福島商業高校入学時でした。「緑の丘の赤い屋根/とんがり帽子の時計台/鐘が鳴りますキンコンカン…」と歌うにつれ、さすがは「福商」と、いたく感動したものでした。というのは、天下の「古関音楽」を後輩たちが応援歌に戴いていたからです。

 ■歌詞は菊田一夫
 話は1947(昭和22)年にさかのぼります。同年7月より50年12月まで、連続ラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」が放送されました。この放送企画はCIE(連合軍総司令部民間情報教育局)の指令で、戦災孤児や浮浪児を救済するキャンペーンの一環として企画された番組で、主題歌など音楽を古関が担当しました。歌は川田正子と音羽ゆりかご会が歌い、その歌声は790回に及びました。
 歌詞は菊田一夫で、「菊田は、浮浪児たちの親や兄たちを戦場に送り出し、戦死させてしまったことへの贖罪(しょくざい)の意味でこの作品を書いていた」(小幡欣治「評伝菊田一夫」)といいます。娯楽に飢えていた大衆はこぞって「菊田のリリシズム(叙情性)に胸を熱くした」(同書)のでした。ほどなく放送効果が表れ、局への投書も多くなりました。気を良くした放送局は、半年後には週5回、月曜日から金曜日まで放送を増やすことになります。

 ■冷や汗続きの生放送
 古関は放送でハモンド・オルガンを担当しました。しかし、菊田のシナリオの完成が遅れ、ある時は即興で演奏したりと、冷や汗をかきながらの生演奏だったといいます。この時使用したハモンド・オルガンは、NHKから古関裕而記念館に寄贈され、現在では陳列品の目玉となっています。なお古関は家庭用にと、同種のハモンド・オルガンを購入し、家庭内でよく練習していたと家族は回想しています。
    メ  モ  
 ハモンド・オルガン 
 パイプ・オルガンの後継楽器として発明されました。パイプ・オルガンに比べて、コンパクトで軽量、リーズナブル。ハモンド・オルガンは、2億数千万種の音色を出すといわれますが、それは数字上の可能性をいったものです。  

 


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