古関裕而『うた物語』TOP
故郷はいつも瞼に
生誕100年記念
故郷はいつも瞼に
昭和33年2月7日「この人・野村俊夫ショー」。NHKでの記念撮影に応じる(前列左から)野村俊夫、古関裕而、伊藤久男の各氏(鈴木家提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(40)2009.12.07

母の優しさ思い続けた野村
 古関とコンビを組んで活躍した福島市出身の作詞家野村俊夫の歌謡詩のテーマには望郷の思いがありました。もちろんこの思いは、近代詩人特有のテーマであり、室生犀星(むろうさいせい)が「小景異情」の中で、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠み、石川啄木も「石をもて追わるるごとく」と望郷の涙に暮れていたのは、あまりにも有名です。郷土の詩人野村もまた、その思いにおいて優るとも劣りませんでした。
 福島民友新聞社を退社した野村は、満州事変の勃発(ぼっぱつ)した1931(昭和6)年に上京、以後、苦難と激動の時代を過ごしました。彼にとって食うや食わずの不遇な体験は、後年「他国の雨」(昭和35年、歌・島倉千代子)などの歌謡曲となりました。戦後、功なり名を遂げていた野村にとっては、都会は住みやすい土地でしたが、時折思い起こすのは無名時代の逆境生活でした。「ドロボウ以外何でもやった」と告白していた野村は、とりわけ故郷福島と母の姿を大切にしていました。故郷には母の甘い香りが漂っていたのでした。

 ■故郷への思慕
  1964(昭和39)年は東京で東洋初のオリンピックが開催された年です。郷土の畏友(いゆう)・古関は「オリンピック・マーチ」を檜(ひのき)舞台で発表し、世界的注目を浴びていました。この年、六十歳を迎えた野村は、「故郷(ふるさと)はいつも瞼(まぶた)に」という歌謡詩を作詞、故郷への思慕の情を切々と歌い上げていました。これに美しい曲をつけたのが古関でした。
 福島市古関裕而記念館の展示品の中に、曲の直筆の歌詞と楽譜を見ることができますが、残念なことにレコード化はされていません。詩の中で野村がひたすら思い続けるのは、故郷の母鈴木アキの優しさでした。
 「ふるさとは母の微笑み/遙々と旅を来て幾とせ/空ゆく雲にもそよぐ草にも/ああなつかしきふるさと」
 日本人にとって故郷と母は、詩歌の普遍的なテーマでした。図らずも晩年(野村は1966年、61歳で逝去)に差し掛かっていた野村にとっても、この故郷と母への思慕はどうしても書かずにはいられなかったテーマであったに違いありません。
    メ  モ  
 福島市古関裕而記念館 
  昭和63年、福島市市制80周年を記念して、福島市名誉市民の古関裕而の業績を後世に顕彰するために建設。費用は約3億3000万円。2万点余といわれる、古関関係と、昭和歌謡関係の資料を保存・展示しています。入館は無料です。
  

 


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