【6】お国のため何かしたい クラロン会長・田中須美子

07/24 16:45

  • 有料記事
19歳の私。この頃には戦局が厳しくなり防空頭巾をかぶって毎日仕事に通った。家を出れば家族離れ離れになる覚悟もしていた

 「お国のために何かをしたい」  今の若い人には考えられないでしょうが、戦争のただ中で多感な青春時代を送った私たち世代はみんな、純粋にそう考えていました。  1943(昭和18)年、戦争が激しくなると、東京で花嫁修業中だった私は、両親が住む青森県五所川原市に呼び戻されました。その後、戦局は風雲急を告げて、父の転勤に伴い引っ越していた秋田県でも爆撃機が飛び交うようになり、戦火に巻き込まれる不安は増し...

この記事をSNSで伝える:

  • X
  • facebook
  • line