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〝撮れなかった写真〟が教えてくれたこと 学校新聞記者だった僕が、教壇に立つ理由

2025/03/10 11:50

(左から)震災時出版局員だった亀岩さん、馬場さん、現出版局員の渡部さん、伊藤さん

 あるはずのないものが目の前にあった。旅館の最上階にはバスが突き刺さり、道路は湖と化していた。

 震災から1週間後。父の車で故郷を回った。携帯電話のカメラを向けた。ただ、どうしてもシャッターボタンを押せなかった。「たかが学校新聞の記者が、この悲惨な現状を撮影していいのか」。

 14年前、亀岩航太さんは福島県立相馬高校(相馬市)の2年生だった。震災による休校を経て学校再開に合わせ、出版局として「震災特別号」を作ることになった。メインを飾ったのは、同級生がカメラに収めた被災地の惨状だった。

 「お前は何をやっていたんだ」。顧問に言われた言葉が、未だに棘(とげ)として残る。

 31歳になった今、小学校で教壇に立っている。自らの経験を糧に、子どもたちに必ず問うことがある。

 どうすれば、伝えたいことが、相手に届くと思う?

 「自分が惨めに思えた」

2011年4月18日に発行された「相馬高新聞139号」

 「きょうから学校再開」「異様な『春休み』終わる」

 2011年4月18日付けの相馬高新聞139号の見出しだ。高台に打ち上げられた船の写真が大写しになり、被災地の生々しい様子が伝えられていた。

 局員が震災後の休校の間、静まりかえる校舎の中で制作した。

 亀岩さんの自宅は内陸にあり、津波の被害はなかった。それでも屋根の瓦は落ち、水道が止まった。東京電力福島第1原発事故の影響で、避難した同級生も多かった。学校はいつ再開するか分からなかった。

津波で高台まで打ち上げられた漁船=2011年3月23日、相馬高校出版局提供

 4月に入り、出版局顧問教諭(当時)の武内義明さん(67)から、取材できるかを聞かれた。学校に向かうと、同級生の女子局員が休みの間、被災地を自転車で移動し、沿岸部や車が通行できないような場所まで写真に収めていた。

 「お前は何をやっていたんだ」。武内顧問の言葉に、「自分が惨めに思えた」

 自分ができなかったことをほかの局員は成し遂げていた。「彼女は寡黙な性格だったが『この状況を伝えたい』という思いは間違いなくあった」

 落ち込んでいる暇はなかった。武内顧問の指示で、避難所となっていた近所の旧相馬女子高校の写真を撮りに行った。

 最高賞に輝くも、「自分はおまけ」

 発行は、みんなが久しぶりに再会する始業式のタイミングに合わせた。

 沿岸部では家が流され、大勢の人が亡くなった。避難所から通う生徒も多く、非日常の生活を過ごしていた。

 「学校は普段通り『日常』にしないと」。亀岩さんは「震災の悲惨さを伝えるのではなく、みんなが元気になるような記事を書かなくてはいけない。みんなそう思っていた」と振り返る。

 新聞を制作中、全国の高校や新聞部から応援メッセージや新聞が数多く届いた。「『がんばって』はありふれた言葉だが、あんなにうれしかったことはない」。届いたメッセージは全校生徒に見てもらいたくて、紙面に掲載した。

「相馬高新聞139号」を発行した(右から)武内顧問、馬場さん、亀岩さんら=2011年4月18日

 生徒からは「写真や見出しが印象的で、引きつけられる」と概ね好評だった。全国からのメッセージを見て「募金とか、(誰かを)応援する立場になったら絶対やる」と話す生徒もいた。

 新聞は大きな話題を呼び、さまざまなメディアで取り上げられた。その後「新聞が欲しい」と言われたので「復刻版」として2000部を増刷した。翌年「高校新聞の甲子園」と呼ばれる全国高校新聞コンクールで、最高賞の文部科学大臣奨励賞を受賞した。

 しかし、亀岩さんは素直に喜ぶことができなかった。武内顧問に「受賞できたが、お前は何をしたのか」と問われた。この言葉は重かった。今でもこの言葉を思い出す。「自分も記事を書いたが、おまけのようなものだった」

 地元の子どもたちのために

 震災から4カ月、3年生になった亀岩さんが商店街を歩いていると、地元の小学生たちが書いた七夕の短冊が目に入った。

 「早く外で遊びたい」「今まで通りの生活がしたい」

 希望に満ちた夢ではなく、子どもたちの切実な心の叫びだった。それを見て、とても苦しかった。このような短冊は数枚ではなく、たくさんあった。自分が小学生の頃は自由にやりたいことをやれていたのに、この子たちは原発事故の影響で何もできない。

 「子どもたちのために自分は何ができるか」

 子どもの理科離れが社会問題になっていた。生物部にも所属していた亀岩さんは、子どもたちが外で遊べる環境をつくりたいという思いと、理科の楽しさを伝えたいという思いが強まった。目指していた薬剤師から一転、小学校の教諭を志すことにした。

 言葉と伝えることの大切さ

「言葉を通して伝え合う必要があるということを子どもたちに伝えていく」と語る亀岩さん

 新聞を制作したことをきっかけに、自分が伝えたいことは、そのとき限りのものではなく、何度も伝え、残すことができ、多くの人たちに届くことを学んだ。

 大学卒業後、18年に小学校教諭となった。教壇では子どもたちに震災当時の経験談を話す。その際に必ず伝えていることがある。

 「『ことば』が持つ力」

 「どうすれば正しく伝わるか、考え続けること」

 震災直後、福島県出身というだけで他県の人から距離を置かれていた経験を教室で話すと、子どもたちからは「それはおかしい」との反応が返ってきた。「何がおかしいのか、おかしいことをどのように伝えれば相手に届くのか」を常々、子どもたちに考えさせている。

 亀岩さんは現在、伊達市の小学校で6年生の担任をしている。「思っていることを正しく理解してもらうため、言葉を通して伝える必要がある」

 先輩から後輩へ

現局員に「相馬高新聞139号」の制作の裏側を伝える(左から)馬場さんと亀岩さん

 今年の2月上旬。亀岩さんは出版局の局長だった馬場健史郎さん(31)とともに母校に向かった。

 「後輩たちに伝えたいことがある」

 相馬高出版局は先輩の思いを引き継ぎ、震災の教訓を伝えるための震災特別号を毎年3月11日に発行している。「記憶を記録し、継承する」をテーマに、震災を経験した先生や生徒の経験談などを掲載している。

 2人が母校を訪れると、2年生で局長の渡部由和理(ゆかり)さん(17)と副局長の伊藤心優(まひろ)さん(17)が特別号の制作に励んでいた。

 相馬高の講師として勤める武内さんも顔を出してくれた。十数年ぶりの再会はすぐに当時の話で盛り上がった。馬場さんも当時、被災地の様子を見て被害のスケールが想像以上に大きかったため「(これまでは)校内の出来事だけを記事にしていたので、こんな大きな出来事を新聞にしようという発想がなかった」と振り返った。

「生徒を育てたいという気持ちだった」と話す武内さん(左)

 武内さんは2人が当時、被災地の写真を撮れなかったことに対して「2人の気持ちは分かる。撮影できた女子局員の写真でさえ、人物は写っていなかった。おそらく撮れなかったのだろう」と教え子たちの気持ちを察した。

 「当時は、生徒たちを育てたいという気持ちだった」と武内さん。大変な状況でも、必死で局員たちに新聞を作ることの意味を伝え、発行にこぎ着けた。

 現役局員の2人はOB2人と武内さんの話をじっと聞いていた。

 受け継がれる思い

 「高校生の自分に撮れた写真があれば、教師として今の子どもたちに見せてあげることができたはず」。亀岩さんは当時、被災地の写真を撮れず後悔したことを後輩に伝えた。「自分の足で集めたものは無駄にならない。『やらなくてもいい』と思うものも、誰かの助けになるかもしれないということを伝えたい」

亀岩さんらの話を聞く渡部さん(左)と伊藤さん

 渡部さんと伊藤さんは震災当時3歳。記憶はほとんどない。渡部さんは南相馬市小高区出身で、原発事故の影響で家族で新地町に転居した。「南相馬の家はすでになく、家族に『ここに住んでいた』と言われてもピンとこない」

 先輩や武内さんから震災当時の新聞制作の様子を聞き、渡部さんは「実際に経験した人だからこそ書ける内容だと感じた」と当時の紙面に見入った。

 伊藤さんは「震災の記憶がない世代に、震災の教訓を伝えていくことが私たちの役目。当時のことだけでなく、少しずつ元気になっている相馬の姿も伝えていきたい」と意気込む。

 震災から14年。亀岩さんたちの思いは、震災の記憶がない後輩たちにも受け継がれていく。(遠藤真菜)

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