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【戦後79年】父親奪った原町空襲 鉄道員ら犠牲に

08/16 08:15

「できることをやり、親に恥じない生き方をするのが私の役目」と語る裕嗣さん
空襲で亡くなった兼次さん

 終戦間際、戦火は兵士が戦う前線だけでなく、本県の「銃後」の暮らしにも広がっていた。1945年8月10日、南相馬市原町区が攻撃を受けた「原町空襲」では鉄道員ら7人が命を落とした。同市の二上裕嗣(ひろし)さん(81)の父兼次(かねじ)さんも原町空襲で犠牲になった一人だ。裕嗣さんは「親には果たせなかった志があったはず。できることをやり、親に恥じない生き方をするのが私の役目」と亡き父に誓う。

 当時2歳だった裕嗣さんに父の記憶はないが、きょうだいの話や書籍などから父の姿をたどってきた。兼次さんは原ノ町機関区で、機関車の補修や点検などに従事。38歳だった。戦前は同僚と一緒に音楽団をつくり、演奏会も開いていた。裕嗣さんは「殺伐とした社会でも、周りに喜ばれていたんだろう」と想像する。

 兼次さんは45年8月9、10の両日、召集を受けた弟勤明(つとめ)さんに同行して仙台に滞在する予定で、休暇を取得。しかし9日、仙台に向かっていた列車が機銃掃射を受け、原町周辺で止まった。運行再開が見込めず、兼次さんは仙台行きを諦めて帰宅した。前日には勤明さんの出征に合わせて集まりが開かれており、兼次さんは帰宅後、参加した友人らにお礼の果物を配りに回った。

 10日も午前6時半ごろから、裕嗣さんを自転車に乗せ、同僚の家に果物を配った。「お父さん子だったのかな。かわいがってもらえていたんだな」。兼次さんは訪問先で「(仕事を)休んだらいい」と言われたが、現在の南相馬市原町区二見町の自宅に戻ると、裕嗣さんを置いて出勤した。

 「律義だったのかな」と裕嗣さん。兼次さんは程なくして空襲に遭った。同僚と機関区内の防空壕(ごう)に避難したが、壕が爆撃により崩れ、命を失った。裕嗣さんは、父のひつぎを大泣きで追いかけたと、後からきょうだいに教えてもらった。

 大黒柱を失った家では母ミドリさんが6人の子どもを育てた。小学校での服装が周りの児童と違うなど、裕嗣さんは母の苦労に思いをはせる。裕嗣さんは「戦争で父を亡くした母の苦労は(自分が)大きくなればなるほど深く染み込む。こんな苦労をさせた社会は何だったのか」と問いかける。

 「あちこちで戦争があるが、当時は日本も同じだった」。現下の国際情勢を見ると、戦争は決して遠い世界の出来事ではない―。戦後79年を経た今もこの思いを強くするからこそ、裕嗣さんは「二度と戦争を起こしてはならない。平和の尊さを忘れてはいけない」と何度も訴えた。

 この連載は国井貴宏、佐藤健太が担当しました。

          ◇

 原町空襲 合併前の原町市史によると、陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の錬成基地だった原町飛行場が米英軍の攻撃対象となった。飛行場のほか、原ノ町駅や原町紡織工場、片倉製糸紡績工場などに被害が出た。1945年2月16日に原町紡織工場で4人、8月9日には大甕と太田両地区で3人が死亡した。10日には鉄道員6人と乗客1人が命を落とした。

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