5期18年にわたり本県知事を務めた佐藤栄佐久氏が亡くなった。85歳だった。ご冥福を祈りたい。
佐藤氏は日本青年会議所副会頭を務め、1983年に参院議員に初当選した。88年9月の知事選に参院議員を辞して立候補し、保守分裂の激しい選挙戦を制した。
在任中は先見性に富んだ政策で県内七つの生活圏ごとに地域づくりを進め、ユニバーサルデザインの導入、自然と共生する循環型社会の形成などに取り組んだ。
特筆すべきは地方分権への取り組みだ。権限や財源を握った中央集権体制の弊害を指摘、地方自治体の裁量権を拡大し、国と地方の関係を対等なものにする改革に心血を注いだ。「戦う知事」として国に対峙(たいじ)し、時には閣僚や官僚と激しく意見を交わした。
東京電力福島第1、第2両原発などで検査記録改ざんなどのトラブル隠しが発覚して以降は、東電や国の隠蔽(いんぺい)体質を糾弾、国の原子力政策そのものに疑問を呈した。
知事退任から20年近く経過した今も、国と地方との関係は従前と大きな変化がない。地方は高齢化が加速し、首都圏などへの人口流出も歯止めがかからない状態だ。本県は原発事故に見舞われ、佐藤県政がキャッチフレーズに掲げた「うつくしま、ふくしま。」の県土は大きく傷ついた。
地方はインフラや公共交通など生活基盤の維持が課題となり、衰退が顕在化している。東日本大震災と原発事故からの復興を確実に成し遂げるため、住民により近い地方の視点から物事を考え、国に改革を迫ったその姿勢はこれからも本県に必要になるだろう。
知事としての在職日数は県政史上最長を記録した一方、その弊害は少なくなかった。勉強熱心で政策に精通しているとの自負も強かった。これが政策を前に進める原動力となったが、トップダウンの傾向が強まり、県職員や県議などが意見をはさむ余地はなく、独善的な面が否めなかった。
その象徴的な出来事は、知事を退くきっかけとなった県発注工事を巡る談合、汚職事件だ。長期政権による強力なワンマン体制が周囲が物言えぬ環境をつくり、親族や建設業者などの不適切な関係や癒着を招くことにつながった。最終的に自身も収賄の罪で有罪判決を受ける結果となった。
佐藤氏は最高裁での有罪確定後も「収賄の事実は断じてない」と主張したが、県政を大きく混乱させ、県民に疑念や不信を抱かせた責任は重い。良くも悪くも確固たる信念を抱き、それを貫いた人生とはいえ、残念だった。