「韓国人被爆者は二重の被害を強いられてきた」。長崎市で6月に開かれた被爆2世との交流会で、在外被爆者訴訟の原告だった李康寧さん=2006年に78歳で死去=を父に持つ韓国原爆被害者2世会会長の太宰さん(65)は訴えた。差別と被爆による苦痛を味わった父の生涯を通じ、韓国・朝鮮人被爆者の苦難に目を向けてほしいと考えている。
康寧さんは、韓国併合後に今の北九州市に渡った両親のもとで生まれ育った。1943年、16歳で三菱長崎兵器製作所大橋工場に徴用。夜勤明けで、爆心地から2・5キロ離れた寮にいた時に被爆した。終戦を機にルーツの朝鮮半島に移った。
皮膚病などに悩まされた康寧さんは、90年代には糖尿病やぜんそくを患った。治療のため来日し、手当支給が認められたが、帰国を理由に打ち切られたのを不当だとして、99年に提訴。最高裁は2006年、手当の受給資格があると初めて認定する判決を言い渡した。
康寧さんは翌月亡くなった。「同じ被爆をしたのに、なぜ日本政府は争う姿勢を見せたのか」と今も疑問が残る。