【続・証言あの時】元自民党復興加速化本部長・大島理森氏(下) 地元のため交付金

02/18 09:55

 「中間貯蔵施設について国、県、地元がそれぞれの役割を果たし、共同作業として進めていくための象徴として交付金を考えた」。県や大熊、双葉両町は除染で生じた廃棄物を集約する中間貯蔵施設の建設を「苦渋の決断」で受け入れた。自民党の東日本大震災復興加速化本部長だった大島理森(ただもり)(75)は、その際に重要な役割を果たした計3010億円の交付金創設の背景を語った。

 中間貯蔵施設の問題は東京電力福島第1原発事故がもたらした政治課題の一つだった。候補地が大熊、双葉、楢葉の3町に絞り込まれた時、大熊町長の渡辺利綱と双葉町長の伊沢史朗、楢葉町長の松本幸英は、被災地事情に精通した大島と何度も意見交換していた。

 大島は「原発事故で古里が壊れた。その再生に必死になっているところに、事故の後処理をするための施設受け入れを求められるのはやりきれないだろう」と3人の心情を理解した。一方で、各地に除染で出た廃棄物が山積みにされている状況では復興は思うように進まない。大島もジレンマに直面していた。

 ただ、大島には原発事故後、頭から離れない思いがあった。「国には原子力政策を進めてきた政治的責任があり、エネルギー政策に関わってきた自分にもある。その責任をどう果たしていけばいいのか」

 その後、楢葉町が候補から外れ、大熊、双葉の2町に絞り込まれる。政府の用地取得方針を巡り、土地が候補地に含まれる町民と、含まれない町民の間の分断なども生じつつあった。

 大島は「現場の町長が苦悶(くもん)苦闘の中で受け入れるとしたら、(既存の)制度としては救えない事業をやらなければならない。自由に使える交付金を手当てするのは当然だ」と考え、関係各所に実現を働き掛けた。最終的に政府と県が協力して地元の地域再生などに中長期的に活用できる二つの交付金をつくり、3010億円の財源を確保した。

 ただ、大島は「政府が考えていたのは、もっと少なかった」と語る。その上で「党として踏ん張ってやらせていただいた。前に進むきっかけの一つになったと思っている」と、政府に増額を了承させたことを明らかにした。大島は施設受け入れ問題の決着を見た後、2015年4月に衆院議長に就任し、加速化本部長を退く。
 21年8月、大島は地元の青森県八戸市で会見し、衆院議員を引退することを表明する。その一報を聞き、双葉郡8町村の首長と議長が動いた。10月6日、全員が議長公邸に集まり、復興に深く関わってきた大島の労をねぎらった。大島は「政治家として、本当に涙腺が緩むほどうれしゅうございました」と、その時を振り返った。(敬称略)

 【大島理森元自民党復興加速化本部長インタビュー】

 自民党東日本大震災復興加速化本部長を務めた大島理森(ただもり)氏(75)に、中間貯蔵施設の建設受け入れを巡る協議の中で、どのように対応したかなどを聞いた。

 苦悶苦闘の中で受け入れ、自由に使える交付金は当然

 ―除染で出た廃棄物を集約する中間貯蔵施設の整備は本県にとって大きな課題だった。加速化本部長としてどう見ていたのか。
 「昨年の東京オリンピックが、コロナ禍でいろんな意見があったにしろ挙行されて良かったと思っている。(中間貯蔵施設の議論が本格化した2013年)当時は、すでに東京でやることが決まっていた。五輪開催時には海外の要人や観光客が日本を訪れ、その中には被災地を見たいと思う人もいると考えた。彼らにきれいで美しい福島の姿を見せたかった。『日本人はここまで頑張ってきたんだぞ』という姿をだ」
 「ただ、その時までには中間貯蔵施設を決めさせていただいて、郡山市や福島市、そして直接の被災地である双葉郡に山積みにされていた(除染廃棄物が入った)フレコンバッグを運び込む必要があると思っていた」
 「フレコンバッグがない風景を見れば、避難している人の中で『除染も終わったし古里に帰りたい』『一緒になって復興しようじゃないか』という思いを持った人が必ず出るのではないか。そのためには何としても中間貯蔵施設(の設置)を早く決めて(帰還や復興などの)作業に入ってもらいたいという思いがあった」

 ―その頃には施設の候補地が大熊、双葉、楢葉の3町に絞り込まれていた。大熊町長だった渡辺利綱氏や双葉町長の伊沢史朗氏らは大島氏のところに通い、さまざまな意見を交換したと証言している。
 「大熊や双葉、楢葉の皆さんからすると、自分たちに過失がない東京電力福島第1原発事故で古里が壊れてしまった。古里再生のために必死になっているところに『その(事故の)後処理をするため、またわれわれの地を使うのか』というつらさ、やりきれなさというのが、ものすごくあったんだと思う」
 「しかし、これを処理しないと復興につながらないという現実もまた、ご理解いただいていた。皆さま方の苦悩は大変だったと思う。従って中間貯蔵の処理の在り方について、国が責任を持ってきちんとやらなきゃなるまいと考えた」
 「まして政府には原子力政策を進めてきた責任がある。私自身もかつて自民党のエネルギー調査会長のような職を与えられたり、(地元の)青森県の(使用済み核燃料の)再処理施設の推進をしてきた責任がある。この政治の責任をどう果たしていけばいいんだろう。ずっとこれは、自問自答してきた問題だった」

 ―どのように対応しようと考えたのか。
 「原子力損害賠償の法律の解釈などの問題とは別にして、政治的責任という観点から、やっぱり国が福島の問題について前面に立たないといかん。同時に中間貯蔵については国と県、そして地元の皆さんがそれぞれの役割を果たしながら共同作業を進めていくんだと。その象徴の具体的な一つとして(地元の再生などに活用できる)交付金というものを考えさせていただいた」
 「(交付金については)ご批判はいろいろあったかもしれない。しかし、現場の首長からすると、苦悶(くもん)苦闘の中で(中間貯蔵施設を)受け入れて(そこから先の復興を)やるとしたら(これまである)制度としては救えないようないろんな事業をやらなきゃならん。その時に前へ進めるため自由に使える交付金を手当てしていくのは当然だろう。こう思った」
 「当時の(中間貯蔵施設の設置を担当していた)環境相は石原伸晃氏(元衆院議員、21年の衆院選で落選)だった。政府で出せる範囲というのは、いろんなことがあったと思う。だが、一日も早く決定し、先ほど言った(多くの人が帰還や復興に携わるという)目標に立って、それを乗り越えるためには党である程度『踏ん張ってやらないといかんな』という思いでやらせていただいた」

 議員引退表明後に双葉郡首長、議長訪問に涙腺緩んだ

 ―最終的には政府が3010億円を出すことで決着するが、当初、政府が出すことを想定していた交付金額はもっと低かったということなのか。
 「政府が(当初)考えていたのは少なかった。それは財源問題などもあると思う」

 ―中間貯蔵施設を巡っては、楢葉町が途中で受け入れを拒否する。政府もその考えを受け止め、施設を大熊と双葉の2町に集約する。楢葉町長の松本幸英氏から話は聞いていたか。
 「うー。もう、ちょっと忘れた。いろいろあったと思ったんだが、もう、そこは」

 ―交付金ができたことで地元の理解やある程度の納得を得られたのか。
 「前へ進むきっかけの一つに、ならさせていただいたとは思っている」

 ―衆院議長に就任するまで、自民党の加速化本部長として長く復興政策に関わった。その立場から、現在の復興の状況をどのように見ているか。
 「福島以外はある意味では創造的復興の段階に入った。しかし、福島はいまだ復旧・復興が混在した状況にある。とりわけ福島第1原発の廃炉、処理水の問題はまだまだこれから時間がかかる。中間貯蔵の問題も、いずれ(県外での)最終処分を考えなければならない。復旧途上にあるという認識を持ちつつ、一歩ずつ確かな安全性を大前提にして進めてほしい」
 「しかし、その中にあって創造的復興の部分に福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想がある。あれは元国土交通大臣の赤羽一嘉氏(公明党衆院議員)が非常に熱心に説明してくれた。大熊町や双葉町では除染を進めながら、まちづくりも少しずつだが進んでいる。そういう意味で、現実的な復旧と創造的復興が混在したような状況でもある。この問題を絶対に風化させてはいけない」
 「もう一つ大きな政治課題として、科学者が指摘するように東南海や南海トラフ、あるいは日本海溝(で想定される地震)の問題がある。日本の国土はそもそも、そういう地形の上にある。これからも大災害が起きる」
 「改めて振り返ってみれば(10年前の東日本大震災の対応を)かなり忘れている部分が多い。いま一度、あの時の問題点をどう乗り越えてきたか。制度、あるいは政府の在り方。日本国民全体の災害リスクに対する対応。国、県、基礎自治体との関係。10年たった今日、いま一度そういうことを冷静に分析する必要がある。それをこれからの危機対応の糧にする責任が、われわれにあるのではないか」
 「亡くなられた(事故当時の東京電力福島第1原発所長の)吉田昌郎氏の取材をされた本とか、(政府や国会の)事故調(査委員会の報告書)などをかなりめくってみた。原子力の在り方、特にあの事故から学ぶこと、われわれは相当、覚悟しておかなきゃいかんと思う。忘れては絶対ならないことだ」

 ―大島氏が21年8月に衆院議員を引退することを表明した後、双葉郡の首長と議長が衆院議長公邸を訪れたと聞いた。
 「双葉郡の町村長さんや議長さんが来てくれた。それぞれの地域の特産物、いろんな知恵を出して作っている物をお持ちになっていた。ここまで(自分のことを)思って、忘れないでいただいたことに、政治家として本当に涙腺が緩むほどうれしかったし、ありがたいと思った」

 ■「東日本大震災10年 証言あの時」3月上旬刊行 予約受け付け中

この記事をSNSで伝える:

  • X
  • facebook
  • line