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【戦後79年】家つないだ2人の母、家族の物語…いつか孫へ

08/15 09:45

自宅で(左から)エトさん、重志さん、清子さん、栄一さんの遺影を見つめる紺野さん。「家をつないでくれた人たち」と思いをはせる

 浪江町遺族会長の紺野栄重(えいしげ)さん(76)の自宅には、太平洋戦争以降の動乱を生きた4人の遺影が並ぶ。伯父と父、そして2人の母。紺野さんは「大変な中、家をつないでくれた人たちだ」と戦争に翻弄(ほんろう)された家族のことを思う。

 海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に乗っていた伯父栄一(ひでかず)さんは1944年4月、グアム沖で攻撃を受けた同艦の沈没により29歳で戦死した。大黒柱となる長男を失った家は紺野さんの母エトさんが継ぐことになり、父重志(しげし)さんが婿養子に入った。

 47年に紺野さんが生まれた。しかし、エトさんは産後の経過が悪く、約1カ月後に他界した。紺野さんは「俺のことを産まなかったら、命はあったかもしれない。戦後で栄養もあまり取れなかっただろうし、いい薬もなかったのだろう」と生みの母をおもんぱかる。

 重志さんは、紺野さんが1歳の時に清子さんと再婚した。戦争で前夫を亡くした清子さんは、紺野さんの育ての母となった。こうした家庭環境について、紺野さんは「一家の柱をなくした家は多かった。同じように苦労した家はたくさんあったはずだ」と推察する。

 海軍で戦艦や空母に乗っていた重志さんは戦時中の経験をよく話したという。過酷な訓練や船上でのひもじさ、船が撃沈され、命からがら救助されたこと―。それでも戦争について考える時に、紺野さんが一番に思い浮かべるのは、残された家族の苦労だ。特に清子さんへの感謝の思いは絶えない。「おふくろの力があって家がここまでつながった」

 「追うごとく追われるごとく生きてきて誕生日近し喜寿を迎えん」。96歳の生涯を全うした清子さんが生前残した短歌だ。前夫の出兵から5年半、前夫が不在の義理の実家で暮らして苦労したと聞いた。戦後、再婚して嫁いだ家を再建しようと必死に働く姿も見てきた。紺野さんは「70代になってようやく一息つけたのかな」と思いを巡らせる。

 清子さんに血のつながった子どもはいなかった。だからこそ、紺野さんはいつか孫たちに家族の系譜を伝えたいと考えている。「戦争があり、いろいろな経緯をたどって、今の家族がある。それを次の世代に伝えなければならない」

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