「浜通りの津波被災地と同じ光景ではないか」。2011(平成23)年3月16日、須賀川市長の橋本克也は、長沼地区の農業用ダム「藤沼湖」の決壊現場で言葉もなく立ち尽くした。東日本大震災でダムの堤体が崩れ、奔流が集落を襲った。寒空の下、自衛隊や消防、警察が泥をかき分け、行方不明者を捜していた。
須賀川市は、11日の地震で大きな被害を受けた。特に市庁舎は使用不能になるほど深刻な状況で、橋本は「拠点なき緊急対応」に臨まざるを得なかった。副市長は病休で全ての情報が市長に集まり、容易に動けなかった。指揮系統を整え、橋本はようやく現場に赴くことができたのだった。
不明者がいる中で、自衛隊から「津波被災地に移動しなければならない」と報告があった。橋本はやむなく、合同捜索を27日で打ち切る決断をする。不明者の家族には「気になるところ(場所)があったら捜します」と申し出て、期限まで何度も捜した。捜索の最終日、不明男児のへその緒が見つかった。「それだけはお返しすることができた」と、今も声を詰まらせる。
31日には、被災住民への初の説明会が開かれた。市長の橋本と、湖の管理者の江花川沿岸土地改良区から理事長が出席した。「どうなっているんだ」。改良区に対し、厳しい意見が相次いだ。濁流で家族を亡くした人、泥土で農地を使えなくなった生産者など、立場はさまざまだった。
橋本は「決して市民が対立する構図にしてはならない」と、分断のない復興の枠組みづくりを決意する。関係する住民も「被災者の会」を設立し、多様な意見をまとめ始めた。行政機能の復旧の傍ら、「行政として(当事者の)改良区が瓦解(がかい)しないように支え、生活再建の支援を始めたい」と考える橋本の目に、一歩引いて見える存在があった。
それはかつて藤沼湖を建設・設置した県だった。県全域が被災する中、特定の改良区の支援に及び腰になる姿勢も理解できた。だが「一つでも参加しないところがあれば、話し合いは終わらない」と考えた橋本は行動に出る。当時の知事の佐藤雄平に連絡し「政治判断しかありませんよ」と訴えた。苦心の末、県と市、改良区が同額を拠出する総額4億500万円の被災者支援の枠組みが固まる。
住民側も歩み寄り、12年3月、市と改良区、被災者の会は復興に向けた覚書を交わす。関係者がそれぞれの立場を乗り越える努力を積み重ね、地域再生の歯車が回り出した。
藤沼湖の復旧と新庁舎の完成はくしくも、震災6年後の17年に重なった。橋本は「市民みんなが頑張った最良の結果だったと思っています」と、長い道のりを振り返った。(敬称略)
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須賀川市 東日本大震災で最大震度6強を観測し、市内全域で建物に被害が出たほか、震災関連死を含む12人が犠牲となった。このうち長沼地区の農業用ダム「藤沼湖」の決壊では死者7人、行方不明者1人の被害が出た。激しい揺れにより、当時の市庁舎は使用不能となり、行政機能の分散を余儀なくされた。現在の庁舎は2014年8月に着工、17年5月に開庁した。藤沼湖は同1月から試験貯水が始まり、同4月に農業用水の供給が再開された。
【橋本克也須賀川市長インタビュー】
橋本氏に、藤沼湖決壊からの地域再生や市庁舎再建に至る取り組みなどを聞いた。
合同捜索、遺族の気になる場所最後まで何度も捜した
―東日本大震災が発生した2011(平成23)年3月11日はどこにいたか。
「市長室にいた。緊急地震速報に続き、経験のない大きな揺れが来た。揺れが収まっても、市庁舎の中は(建物が損傷して)コンクリートの粉が舞い上がり、もやがかかったような状況だった。鉄筋が見えている部分もあり、危険だと判断して全員で退避した」
「本来なら通信機器が整った場所に災害対策本部を設置するが、駐車場に長机を置いただけで本部とした。職員を派遣したり、消防団から報告を受けたりしていると、市全体が被災していることが分かってきた」
―どのようにして緊急対応や行政機能の維持に取り組んだのか。
「市体育館を市民向けの避難所として開放し、2階の一室に災害対策本部を設けた。私はそこに常駐した。当時の市庁舎は老朽化しており、耐震診断を行っていた。(11年の)3月末に結果が出る予定だったが駄目なことは分かっていた。いざというときは、耐震化していた総合福祉センターに機能を移すつもりで一時そうしたが、センターも危険だと分かった。そのため、使うことができ、市民に知られている文化センターやアリーナなどの公共施設に窓口機能を分散させた。(西部の)岩瀬地区の庁舎は被害がなかったので管理部門や市議会の機能を移した」
「市庁舎には電子データや書類が残されていた。危険な中、部署ごとにヘルメットをかぶって中に入り必要な書類を取り出した。それを『決死隊』と呼んでいた。(市庁舎が使えないことで)難しい対応を迫られた」
―藤沼湖の被害は早い段階から入っていたのか。
「もちろん。決壊して人的被害が出ていると聞いていた。非常に深刻な事態と考えていた」
―市の記録によると、橋本氏が藤沼湖の現場に入ったのは16日だったとある。
「災害対策の拠点である市庁舎を失ったため、いうならば私がいる所が災害対策本部という位置付けだった。副市長が入院して不在だったため、被災状況は全て私に集まった。(自分の所在を含めた)対応を周知させるため、一定の時間は動けない状況があったことは事実だ」
―藤沼湖の現場に立ってどのように感じたか。
「映像で見る津波被災地と同じ状況が(藤沼湖のある)長沼地区で起きたと感じた。雪が降るような寒い中、警察や消防、消防団、自衛隊が行方不明者の捜索に最善を尽くしていただいたと思っている」
―自衛隊を含めた合同捜索は27日に終了するが、どのように決断したのか。
「当時はまだ2人が行方不明で、捜索もかなりの広範囲で行っていた。その時、自衛隊から『津波被災地で捜索が追い付かない部分があり、そこに移動しなければならない』と報告があった。一つの区切りとして27日の終了を判断した」
「日付を決めるに当たって行方不明者の家族に説明した。『まだあそこを(捜索で)見ていない』という思いがあると心残りになると考えた。そこで『気になる場所があれば捜索させていただきます』という場面を何度もつくった」
「合同捜索の最終日、行方不明者の男児のへその緒が見つかった。何とかそれだけは、両親にお返しすることができた。もう1人の行方不明だった中学生は、1カ月半ほど後に二本松市の阿武隈川で見つかり、遺体を(家族の元に)お返しした」
市と被災者「復興へ共に力を合わせていきましょう」
―藤沼湖の決壊で被災した住民に対する最初の説明会が31日に開かれた。どのような状況だったか。
「市からは私、(藤沼湖を管理する)江花川沿岸土地改良区からは理事長が出席した。当然ながら改良区に対して『管理はどうだったのか』など厳しい意見をいただいた」
「その時感じたのは、決壊で被災した人も(農業用ダムとしての藤沼湖の)受益者の農家も、私にとっては同じ市民ということだ。『決して対立の構造にしてはならない』と思った」
―どのように話し合いを進めていったのか。
「多くの被災者はダムの水を使っていないため『(ダムは)なくてもいい』という判断をしても当然だった。しかし、長沼地区全体の復興に、ダムの再建は欠かせなかった。立場の異なる被災者に一定の理解をしてもらう必要があった」
「被災者の生活再建を第一にしようと決めていた。当事者の改良区が被災者を支援することが求められたが、そのような体力はない。改良区が瓦解(がかい)しないように市、そして(ダムを設置した)県が支えることが重要と考えた」
「(被災した市民に)『被災者の会』を立ち上げていただいた。会長をはじめとする役員の方が苦労されながら、いろいろと温度差のある中で、話をまとめる環境を整えていただいた」
―最終的に県と市、改良区が同額を拠出し、総額4億500万円の生活再建支援の枠組みができるが。
「当時の県は、一つの改良区だけを支援することが望ましくないと考え、判断をちゅうちょしていた。県が欠ければ『あれは何もしていない』となり、議論が終点を見ないと考えた」
「当時の知事の佐藤雄平氏に連絡して『政治判断しかないですよ。私もそのような判断で取り組んでいます』と訴えた。その場での返事はなかったが、県は支援をしてくれた」
―12年3月28日に、市と改良区、被災者の会による地域再生に向けた覚書が交わされた。
「(さまざまな関係者が支援策の内容に)全部納得してくれたとは思っていないが、少なくとも一定の理解をしていただき、これからの復興へ共に力を合わせていきましょうということになった。正直、被災1年後にそのようなことができるとは考えていなかった」
「有識者による調査委員会が原因を調べ、(決壊の原因が激しい地震の揺れによるものという)結果を関係者で共有できたことも大きかった。専門家による調査結果が、一つの納得を生み出したと思う」
市庁舎再建「必ず結果出します」国に説明
―市庁舎を再建するのにどのような課題があったか。
「市庁舎は公用施設で、学校などの公共施設とは違う。公共施設の再建には国の補助などがあるが、公用施設にはない。自分たちが使うものだから、自分たちで造りなさいというのが大前提だった。整備基金もほとんどなく、お手上げの状況だった。『これは駄目だな』と思っていたら、政府の姿勢が変わった」
「津波で庁舎が流されてしまった事例がいくつもあったので国が(再建を)支援することになり、(その枠組みで)何とか再建の道を進むことができた。それがなければ、今も(12年6月に行政機能を集約した、文化センター駐車場の)仮設庁舎にいたかもしれない」
―どのようにして再建を進めていったのか。
「市の財政負担を軽減するため、市街地再開発の手法を取り入れ、再建に取り掛かった。復興交付金なども活用した。ただ、財源は国民の支援によるもので、いずれ(その使途が)検証される時が来ると考えた。私はあまりはったりを言わないが、(市庁舎再建について)国の官僚に『須賀川市は必ず結果を出します』と言い、計画に基づいた論理的な説明を心掛け、理解をいただいた」
「新庁舎を造る上で重視したのは、災害時にどんなことが起きても対応できるような拠点にすることだった。免震構造にして、住民の避難を受け入れることができるようにした」
「ソフト面の充実にも心掛け、1階に市民に必要な窓口を集め、そこで(手続きが)完結できるようにした。そうしたら(窓口が横並びに長く続くことになり、職員の執務スペースとの間を区切る)シャッターが(面積が最大のシャッターとして)ギネスブックに載ってしまった」
―新庁舎の完成は17年3月で、ほぼ同時期に藤沼湖の修復も終わった。震災から6年かかったが、この進度をどう見ていたのか。
「決して遅くはない。市民の皆さんを含め頑張った最善の結果と思っている」
―震災から11年となる。災害対応を指揮した立場として今何を伝えたいか。
「震災のような大規模な災害は、必ず起きると考えていた方がいい。震災対応の経験がある世代は次の世代にノウハウではなく『災害に直面した場合に何が大切か』ということを伝えなければならない」
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