西田敏行さん、震災後「心強いエール」 友人ら感謝、突然の死を悼む

10/18 09:30

農産物の安全をPRする西田さん(中央)と佐藤雄平前知事(右)ら=2011年4月1日、郡山市・ヨークベニマル横塚店
小原田中バレーボールクラブ時代に写真に収まる西田さん(後列中央)

 俳優西田敏行さんの訃報を受け、古里の本県では17日、友人らが突然の死を悼み、東日本大震災、東京電力福島第1原発事故に遭った福島の復興に尽力してくれたことを感謝した。

 「福島の大きな財産がなくなってしまったようで大変残念」。東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)の清水一郎副館長(49)は肩を落とした。

 伝承館では、西田さんが館内に流れるナレーションを担当しており、「穏やかでも力強く説得力のある語り口は、来館者に好評」と清水さん。「原発事故後、メディアを通じて福島の現状を発信してくれたおかげで支援の輪が広がった。復興を気にかけてくれていた」と振り返った。

 西田さんは震災直後の2011年4月、郡山市で開かれた県産農産物の安全性をPRするイベントに参加。「福島はどんなことがあっても負けねぇ。あの美しい『うつくしま、ふくしま』を俺たちの手で取り戻そう」と語り、県民を勇気づけた。

 12年3月に郡山市で行われた「福魂祭(ふっこん)」では、古里への思いを込めた曲「あの街に生まれて」を披露した。「福魂祭」の実行委員長を務めた藤原賢一さん(67)は「『とにかくがんばっぺ』と言ってくれたことを昨日のことのように覚えている。誕生日が一緒で地元も近く縁を感じた。残念だが、とにかく感謝している」と話した。

 同級生「二枚目、ひょうきん」

 「もっと話したい。死んだことを認めたくない。体の一部みたいなもんだ」。小中学校の同級生で、小原田中バレーボールクラブで一緒にプレーした村上賢一さん(76)=郡山市=は9月に郡山市で会ったばかりだった。代表作「釣りバカ日誌」の主人公浜崎伝助は明るくお調子者。素顔の西田さんを「ハマちゃんをちょっとおとなしくした感じ。ほぼあのまんま」と明かした。

 最後に連絡したのは今月13日で「ここ数日連絡がなく、忙しいのかなと思っていた」。訃報に接し、撮影先の長崎・佐世保に西田さんを訪ねた思い出などが呼び起こされたという。

 同じバレーボールクラブの大内和夫さん(77)=神奈川県、郡山市出身=は、演じることが多かったコメディータッチの役柄とは異なり「学生時代は二枚目で、女子からすごく人気があったイメージ」と振り返る。

 当時は9人制のバレーボールで、西田さんはセッターとして活躍。アタッカーに球を供給する”脇役”に徹していたが、小原田小6年時の浦島太郎の演劇では主役を務め、後の大役者の一端を見せていた。大内さんは「二枚目だが冗談がうまく、ひょうきんなところもあった。そこはテレビのまま」と旧友をしのんだ。

 地元行きつけの店、先月訪れたばかり

 郡山市のラーメン店「春こま食堂」は、西田さんお気に入りの店だった。同店を営み、西田さんと40年以上の交流があった国分文子さん(84)は「誰とでもよくしゃべる、いい人だった」と別れを惜しんだ。

 西田さんは、ラーメン、ビール、おしんこを必ず頼み、地元の友人と楽しく過ごしていたという。国分さんらは親しみを込めて「西田のおんちゃん」と呼んでおり、店には西田さんのサイン色紙が飾られている。

 9月にも店を訪れたばかりで「ラーメンが食いたくて…」と話していたという。国分さんは訃報を聞き涙が止まらず、「何で先に逝ってしまったのか。何とも言えない気持ち」と嘆いた。

 スタッフにも声かけ

 西田さんは2021年2月、TBS系(TUF)連続ドラマ「俺の家の話」の撮影でいわき市のスパリゾートハワイアンズを訪れた。ハワイアンズを運営する常磐興産の営業企画グループリーダーの根本淳一さん(47)は「スタッフにも気軽に声をかけてくれた。歌うシーンの撮影もあり、とても歌が上手だと改めて感じた」と振り返った。

 釣りバカ日誌、いわきでもロケ

 映画「釣りバカ日誌8」は、いわき市でロケが行われた。いわき商工会議所青年部事務局長としてロケ誘致に尽力し、撮影に同行した大平均さん(70)は「真面目で、気さくな人だった」としのんだ。「ロケの期間中に何度か飲みに行ったが、静かに飲む人だった。突然の悲報は大変驚いた」と声を落とした。2009年公開の「釣りバカ日誌20ファイナル」で西田さんは、郡山テアトル(郡山市)で開かれた試写会に出席した。同映画館を運営する東日本映画の安達友社長(89)は「悪役も含めどんな役も演じる名優。こんな役者はいない。残念でならない」と話した。

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