【続・証言あの時】元自民党復興加速化本部長・大島理森氏(上) 希望つくるのが政治

02/17 10:30

おおしま・ただもり 青森県出身。慶応大法学部卒。毎日新聞社勤務、青森県議を経て1983(昭和58)年に衆院議員に初当選。12期。海部内閣の官房副長官や農相、自民党幹事長、副総裁を歴任した。2012年12月には、自民党の東日本大震災復興加速化本部長に就任。政府への4度の提言を通じ、与党発の復興政策の実現で主導的役割を果たした。15年4月に衆院議長に就任し、議長在任日数は帝国議会も含め最長の2336日。21年に政界の第一線を退いた。75歳。

 「先が見える、あるいはきちんと選択できる。そういう環境をつくることが政治の決断ではないかと思いました」。昨年政界の第一線を退いた大島理森は、自民党の東日本大震災復興加速化本部長として、本県をはじめとする被災地再生を主導した。震災から間もなく11年。大島は一つ一つの言葉の重みを確かめるように、政治判断の裏にあった思いを語った。

 震災と東京電力福島第1原発事故が発生した2011年、自民党は下野していた。副総裁の大島は、古里の青森県などの被災地に足を運び、震災対応に汗を流した。大島のもとには、被災地の実情を伝える声が集まるようになった。12年12月の衆院選で政権を奪還した自民は、重鎮の大島を復興加速化本部長に任命した。

 「今回の被害は古里そのものが失われた。いろんなことをやらなければならないが、一度に全部行うことは難しい」。大島は、党がさまざまな復興政策の優先順位を判断し、政府に提言して実行を求める枠組みが必要と考えた。「人が生きていくためには、まずは住まいの再建だろう」。連立政権を組む公明党とも連携し、13年3月6日、住まいの確保を重視した第1次の与党提言を提出した。6月18日には、矢継ぎ早に第2次の提言も打ち出した。

 震災と原発事故から2年余りが経過した当時、復興政策の方向性は「全員帰還」だった。原子力災害で避難を余儀なくされた自治体の首長も、避難先で懸命に帰還への道筋を探っていた。ただ、大島は被災地をつぶさに回り、話を聞くうちに一つの思いに至る。

 すでに、避難先の学校に通い始めている子どもたちがいた。大島は被災者の視点で考えた。「子どもが学校に行き、友達ができれば、親もその場で生きていこうと考える。新しい生活を始めている人に、また戻ってやってくださいと言うのは、本当に希望をつくることになるのだろうか」

 大島は、11月8日の第3次提言の中に、避難先に移住する人への支援策を盛り込んだ。これまでの「全員帰還」の方針を転換するものとして大きな波紋をもたらした。大島は「現場で悩む首長も(必要性に)気付いていたかもしれないが、言えなかっただろう。先を見て、頑張ってもらうことが取るべき方針と考えた」と振り返る。同時に「そのためには賠償でも何でも、きちんとさせる」と、腹を決めていたという。

 大島は自らの決断を説明するため、本県を訪れた。当時の知事の佐藤雄平や、避難指示などが出された12市町村の首長と直接会って理解を求め彼らが懸念する事態への要望も聞き取った。なぜそこまでできたのか。

 「政治家だからね」。大島はこともなく答えた。(敬称略)

 【大島理森元自民党復興加速化本部長インタビュー】

 自民党東日本大震災復興加速化本部長として、本県復興の在り方に大きく関わった大島氏に政策判断の思いなどについて聞いた。

 現場に着いた時「古里は壊れた」という感覚だった

 ―2011(平成23)年3月11日の震災発生時にどこにいたのか。
 「当時の自民党は野党で、私は総裁の谷垣禎一氏(元衆院議員、17年に引退)の下で副総裁をしていた。3月11日は、自民党奈良県連との懇談会に参加するため、東京駅から新幹線に乗った。熱海を過ぎて静岡で新幹線が止まった」

 「随行していた自民党職員に理由を聞くと、『大変です。大地震が東北で起きました』と言う。携帯電話や車両内のテロップで被災の情報が入ってきた。何とか名古屋に着いたのは午後7時ごろだったと思う」

 「東北に向かおうとしたところ、12日の朝一番で大阪の伊丹空港から青森空港に飛ぶ便があることが分かった。1席だけ予約できたので青森に向かった」

 ―現地はどのような状況だったのか。
 「(地元で選挙区の)八戸から車で迎えに来てもらい、現地に向かった。八戸の港に着いた時、その光景に慄然(りつぜん)とした。津波の怖さを目にし、肌で感じた。臭いもかいだ。この姿をどう手当てすればいいのかと考えた。『古里は壊れた』という感覚だった」

 「あの時は寒かった。食料や灯油をどうするか。緊急対応で手いっぱいだった。その時、福島の原発がどうなっているかというところまで、率直に言って考えが及ばなかった。3日ぐらい現地にいて東京に戻った」

 ―当時の政府の対応をどう見ていたのか。
 「当時の総理の菅直人氏は、私の目から見ると、99%が福島の原発対応だったと思う。原発災害は福島だけではなく、(最悪の場合)東京までの危機と考えると、内閣としてそうであったことを非難するつもりはないし、当然であったろうと思う」

 「しかし一方で、そうではない地域の災害対応について、官邸がちゃんと機能したかというと、残念ながら、もうバラバラだった。それ故に自民党本部に、落選中の東北の議員や各県の知事らから現場の苦しみが伝えられてきた。阪神・淡路大震災を経験した議員らを中心にさまざまな対策を取った」

 「一つ例を挙げれば、二階俊博氏(衆院議員、後の自民党幹事長)と2人で経団連に行き、各県の知事との間に物資調達のホットラインを結んだことがあった。私は5月の連休に千葉や茨城、福島の被災地を巡った。その時に福島の大災害を実感した」

 復興住宅含め住む場所の確保を第一に目指した

 ―12年12月に解散総選挙があり、自民党が政権を奪還する。その際、党の東日本大震災復興加速化本部長に任命されるが、その経緯について聞きたい。
 「私としては、政権奪還ができてほっとしていた。ある意味では(野党の自民党総裁として)苦労された谷垣氏だから、(解散総選挙前の)総裁選の時、できれば谷垣氏を(総裁選で再選させ、解散総選挙後に総理になってほしい)という思いで、いろいろしたけれども。(谷垣氏は総裁選出馬を断念し、安倍晋三氏が自民党総裁になる)そのような時に、本部長をやれと指示をいただいたということだ」

 「当時の総理の安倍晋三氏が『福島の復興なくして日本の再生なし』と掲げる中で、たぶん私が被災地の出身であることもお考えいただいたのではないか。野党の副総裁をやって(被災地復興の)問題に関わってきたこともあって命ぜられたと思う」

 ―本部長に就任し、どのような方針で取り組もうと考えたのか。
 「私の中では(被災地に)住んでいる皆さんが『古里をなくしてしまった』と考えていた。いろんなことをやらなければならないけれども、一度に全部やるということはなかなか難しい」

 「古里がなくなったのだから、被災地の首長が『あれもこれもやってくれ』と要望するのは当たり前の話だ。党が(復興政策の)順序付けをして『まずはこれからやろう』『次はこれをやろう』という方向性を明確にすることが大事だろうと。構想をつくり、チェックして、また新たな構想をつくるように、党が(政府に)提言しようと考えた」

 ―第1次の提言を13年3月6日に行うが、その時に重視したことは何か。
 「人間にとって住むところがないということは、生きるという意味で最も大事な場所を失うことだと考えた。復興住宅を含めて住む場所の確保を第一に目指そうとした。そういう心を込めたつもりだった」

 ―連立政権を組んだ公明党に声を掛けたのか。
 「もちろんそうだ。公明党の(加速化本部長を務めた)井上(義久)氏とは、もうしょっちゅうそういう話をしていた。『自民党はこう考えているけれども』と。自公で与党提言として続けてきた」

 ―与党が政策をまとめ政府に提言することについて、霞が関の官僚はどのような受け止めだったのか。
 「どう思っていたかは分からないが、当然それをまとめるに当たっては彼らとも議論するわけですから。(加速化本部は)細部の具体的なことまでは申し上げない。われわれの役割というのは順序付けとか、全体構想とか、こういうものだと思う」

 「行政職の諸君は、いろんな陳情を受けているとはいえ、毎日の行政事務に追われている時に情報がやっぱり足らざるところもあった。(政治の側で)復興庁を中心に多くの役所に関わることをまとめて、大方針として提言することは、行政職の皆さんに『協働作業ができる』と思われていたのかもしれない」

 新生活ある人に「戻って」というのは本当に希望か

 ―13年11月8日の第3次提言では、当時の『全員古里に帰還する』という政策の方向性について、避難先での生活再建も支援するように転換した。どのようにして決断したのか。
 「福島の場合、双葉郡(の大半)に人がいないわけだ。各町村長が『古里を取り戻したい』と、ただ一点のために大変な努力をされている姿を見た。当然だろうと思った」

 「一方、そのような状況の中で人が生きるということを考えると、避難していた人は毎日毎日、生活をしなきゃならん。お子さんの教育もあるだろう。介護を抱えているかもしれない。働く場も必要とするかもしれない。すでに避難先で生活するというステージに入っている人が、相当いることを知った」

 「現実に新しい生活を進めている人たちに『また戻ってやってください』ということは、本当に希望をつくることになるんだろうかと、私は思った」

 「戻ってまた頑張りたいという人はその選択を(復興政策の)ベースにしながら、『もうそこに生活している』『生きていくんだ』という気持ちが固まっている人たちには人生の先が見える、あるいはきちんと選択できる、そういう環境をつくることが、つらいけれども政治の決断ではないかと思った」

 ―提言を踏まえ政府も動きだした。福島に来て当時の佐藤雄平知事や被災地の首長らに直接説明したのか。
 「しました」

 ―当時は当たり前のように受け止めていたが、政府ではなく、党の政策責任者が現地に説明しに来るというのは、かなり異例のことではないか。
 「われわれは政党人、政治家。たたかれようが何しようが、です。やはり」

 「現場の指導者であった町村長も、毎日のように避難されている方々と話をしているうちに、気持ちとしては『もうそこで生活している人をどうしたらいいだろうか』という思いがあったのではないか。それを私は、話している雰囲気などで感知した」

 「ただ、町村長の皆さんは『みんな帰ってくれよ。頑張ってくれよ』と言い続けてきたわけだから。それを変えるというのはできない。子どもが学校に行って友達ができた姿を見ていると、親からすると『ここで私は一緒に生きていくんだ』という気持ちの人もいると思った」

 「対応はできるだけ、いろんな賠償でも何でも、きちんとさせていく。やはり『生きるために先を見て、頑張ってください』という判断を選択してもらうことが、この(第3次提言を出した13年の)段階で取るべき方針ではないか。そう思った」

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