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【続・証言あの時】元官房副長官・福山哲郎氏(上) 官邸、情報隠してない

05/07 10:30

ふくやま・てつろう 東京都出身。京都大大学院法学研究科修士課程修了。大和証券勤務を経て1998年に参院議員に初当選。4期。民主党の鳩山由紀夫内閣では外務副大臣を務めた。2011年3月の東日本大震災発生時は菅直人内閣の官房副長官として、東京電力福島第1原発事故の収束対策や避難区域の決定、米国との協議などに関わった。民進党を経て、17年に立憲民主党の結党に参画。その後4年間、党幹事長を務めた。60歳。

 2011(平成23)年3月11日午後2時46分、官房副長官だった福山哲郎は首相官邸執務室で激しい揺れに襲われ、地下の危機管理センターに入った。1時間後、官邸の雰囲気を一変させる情報が入る。「福島第1原発、全交流電源喪失、冷却機能停止」。東京電力福島第1原発事故の始まりだった。

 当時は、民主党の菅直人内閣。官房長官の枝野幸男が震災全般の対応、福山が原発事故対応を担った。官邸には原子力安全委員長の班目春樹、東電フェローの武黒一郎が詰めた。彼らの事故の進展予測は、以下のようなものだった。

 津波で核燃料を冷やす機能を失った第1原発では核燃料が溶け、その際に周囲の水を蒸発させる。水蒸気の圧力は原子炉格納容器を破壊し、大量の放射性物質が放出されてしまう。それを防ぐには、格納容器から水蒸気の圧力を逃す「ベント」という作業が必要となる。準備が進められた。

 12日午前1時ごろ、東電にベントがいつできるかと聞くと「午前3時」との答えが返ってきた。ベントはやむを得ない措置だが、放射性物質の放出を伴う。福山は枝野や経済産業相の海江田万里らと協議し午前3時ごろ、実施を国民に知らせる記者会見を開いた。

 その後、新潟などで地震が発生し官邸は対応に追われる。しばらくして福山が「ベントは」と聞くと、まだできていない。「爆発の危険はないんですか」と、班目や武黒を問いただしたが、はっきりした答えはなかった。時間は午前5時過ぎ。これまで原発から半径3キロに出していた避難指示を半径10キロに拡大した。

 焦る福山は、武黒に「現地に連絡を」と言った。距離をとった武黒は、小声で「どう連絡すればいいんだ」と横に聞いていた。現地と直接つながっていないのか―。東電への不信感が芽生えた。首相の菅が第1原発を訪れ、所長の吉田昌郎(13年に死去)に直接指示するなどして1号機のベントは成功する。しかし、1号機は、核燃料が溶ける過程で発生した可燃性の水素が充満したことにより、12日午後、建屋が爆発する。

 事故はさらに進んだ。そんな中、14日夜に東電から「原発から撤退したい」との意向が伝わる。菅は15日朝に社長の清水正孝を官邸に呼び出し「撤退はあり得ない」と告げ、東電本店に乗り込み、統合対策本部を設置する。同行した福山は愕然(がくぜん)とする。そこには、第1原発の現場とつながれたテレビ会議システムがあった。

 福山は「東電には、本当の情報を教えたくない状況があったとしか考えられない。官邸は情報は隠さない、避難はより速く、大きくということで、ぶれはなかったと思う」と、初期対応を振り返った。(敬称略)

 【福山哲郎元官房副長官インタビュー】

  東京電力福島第1原発事故当時、官房副長官だった福山氏に、官邸が直面した事故収束に向けた初期対応の状況などについて聞いた。

 原発の全交流電源喪失、緊迫のレベル上がる

 ―2011(平成23)年3月11日はどこにいたか。
 「首相官邸の執務室にいた。大きな揺れを感じてすぐに官邸地下の危機管理センターに飛び込んだ。午後3時40分ごろ『福島第1原発、全交流電源喪失、冷却機能停止』とスピーカーから流れた。緊迫のレベルが上がり、誰かが『電源はいつ回復する』と叫んだが、『問い合わせしてます』という答えしか返ってこなかった」

 ―原発事故対応に、どのように当たったか。
 「官邸に原発事故の対策室を設けた。震災全体は官房長官の枝野幸男氏、原発対応は私が担当することになった。午後5時過ぎに、経済産業相の海江田万里氏が原子力緊急事態宣言を発令するための上申書を持って官邸に来た。私はとんでもない災害になると思い、ここからできる限りノートにメモを取ることにした」

 「午後9時23分、原発から半径3キロに避難指示を出した。この頃、原子力安全委員長の班目春樹氏が、菅直人首相に原発事故の状況や今後どうなるのかを説明した。並行して、東電から来たフェローの武黒一郎氏から『電源車を確保できれば冷却装置が復旧するので、電源車を送って』とオーダーがあったので、私が中心になって電源車を集めて現地に送る手配をした」

 「12日午前0時15分、菅氏とオバマ米大統領の最初の電話会談があった後、班目氏が菅氏に(格納容器の圧力を下げる)ベントの必要性を報告した。それが午前1時ぐらい。『ベントができるのはいつか』と聞いたら、東電から『(午前)3時ぐらい』という答えがあった。ここで大議論があった」

 ―どのような議論か。
 「ベントで放射性物質を外に出すのは世界で初めてで、夜中の3時に記者会見するかどうかの議論だ。放射性物質の出る量も分からず、国民、特に福島県民が不安になるのではと。でも(会見を開かずに)朝一番に『もうしました』と言ったら、黙ってやったと言われる。枝野、海江田氏とすり合わせて午前3時過ぎ、ベントの実施について会見した」

 「この頃、電源車が多数原発に到着していたが、規格が合わずつながらなかったと分かった。私は『電気屋が電源つなげなくて誰がつなぐんだ』と信じられない思いだった。その後、新潟と長野で地震があり、対応に追われた。幸い大きな被害はなく、われに返り『ベントはどうなった』と聞いたら、まだできていなかった」

 「私は『爆発の危険はないのか』と、班目氏と武黒氏に厳しめに言った。『停電で作業が遅れている』と言うが、それを含めて2時間でできるという説明ではなかったのかと思い、『官房長官が国民にうそを言ったことになる』と言った。首相に報告したら『えっ』という顔をした。それが午前5時過ぎで、避難指示を原発3キロから10キロに拡大した」

 菅首相「吉田は信用できる。大丈夫だ」

 ―菅氏が12日午前6時ごろに第1原発の視察に出たと思うが。その経緯は。
 「午前1時か2時ごろに菅氏が『現場を見たい』となった。指揮の現場を離れるリスクや状況が不安定な現場に首相が行くリスクに賛否があった。私は『現場も見ないで大災害の判断をしたのかと批判されるなら、見てこられたほうがいいと思います』と言った」

 「その背景には、原発の状況が分からず、全くらちが明かず、言った通りにならないということがあった。私たちが言った通りにならないというのではなく、東電が言ってきた通りにならないという意味だ」

 「ベントができない状況に、武黒氏に『どうなったか現場に聞いて』と言った。すると武黒氏が『現場に連絡するにはどこへ連絡したらいいんだ』と横に聞いているのを耳にした。『この人は現場につながっていたんじゃなかったのか』と思った。全て東電の本店経由の情報だった」

 ―視察の結果は。
 「菅氏は避難指示の拡大を報道陣に伝えた後、ヘリで原発に向かった。戻ってきた時の第一声は忘れられない。防護服を脱ぎながら私に『吉田(昌郎第1原発所長、13年に死去)は信用できる。大丈夫だ』と言った。ベントをするという吉田氏の言葉に納得していた。福島だけではなく岩手や宮城もひどい状況ということも確認してきていた」

 ―ベントは成功するが、1号機は12日午後に水素爆発を起こし建屋上部が吹き飛んだ。
 「水素爆発については、班目氏は『しない』とずっと言っていた。テレビで爆発の映像が流れると、班目氏が頭を抱えたのを覚えている。私たちは格納容器が爆発したのか(格納容器はある程度無事で建屋の)水素爆発なのか分からなかった。それで避難指示を半径10キロから20キロに拡大した」

 「この時に(核燃料を冷却するために原子炉内への)海水注入の話が出てきた。(注入できる真水がなくなったので)海水を入れたら、どういうリスクがあるか全く説明がない」

 「菅氏は班目氏に、海水を入れて塩分が固まるなどして流量をふさぐ可能性がないのかと、(核分裂反応が起きる)再臨界はしないのかという2点を確認した。班目氏は再臨界について『ゼロではない』と答えた。注水の準備に2時間かかるというので、その間に説明を待った。官邸が海水注入を止めたということは全くない」

 「数日後、班目氏と2人になった時『ゼロではないと言っていましたよね』と聞いた。『言ったかもしれない』と答えた。『委員長にゼロではないと言われたら、素人の私たちはあると思いますよ』と聞くと、『私が言うゼロではないは、科学的にはほぼゼロに等しい。頭の中ではそういうことになっている』と言う。何だこれはと思った」

 ―危機の時こそ情報共有や分かりやすい説明が必要ではないか。
 「(説明が)全然違っていたという感じだ。(武黒氏も班目氏も)はっきり言わない。不信感も出る」

 「3月14日夜から15日朝にかけての、いわゆる東電の(福島第1原発からの職員の)撤退問題では、いつの間にか『一時撤退』とか『一部の撤退』とかに言葉が変わっているが、そんな説明は全くない。官邸で一部の撤退と思っていた人間は一人もいない」

 「菅氏が15日早朝に東電社長の清水正孝氏を官邸に呼び『撤退は許さない』と言い、『東電の情報は二転三転するので、東電と政府がともにオペレーションする。東電の中に政府の人間、補佐官の細野豪志氏を入れる』と清水氏の了解を取った」

 「細野氏と清水氏が東電に入り、その後に菅氏が東電本店に乗り込んだ。乗り込んでいた最中に4号機(の建屋)が水素爆発した。あのあたりが一番緊迫していた」

 ―東電の本店に同行したのか。
 「行った。第1原発と結んだテレビ会議システムがあり、私は『こんな施設があったんだ。だったらもっと早く呼んでくれればいいのに』と思った。結果として東電は、本当の情報を教えたくない状況があったとしか考えられない」

 「東電は民間企業なので、経営者側がなるべく事故を小さく見せたいというメンタリティー(精神)があるのは仕方ないが、国民の命や自然が侵されるリスクが高い時に企業の利益を優先されたら、それこそもたない」

 対応、うまくやったと言うつもりない

 ―原発事故の初期対応を振り返ってどう思うか。
 「うまくやったなんて言うつもりは全くない。ただ、原発事故から2日目に、菅氏と枝野氏、私の3人で『情報は隠さない、避難は1分でも1秒でも速く、より大きく安全面で保守的にやりましょう』と確認した。そのことについては、ぶれはなかったと思う」

 ―当時、第2原発の半径10キロにも避難指示が出たが、後になって半径8キロに変更されたことで広野町北東部は避難指示から外れた。
 「あったね」

 ―当時の広野町長の山田基星氏が、政府の原子力災害現地対策本部長だった松下忠洋氏(12年に死去)に頼んだと証言している。
 「松下氏から官邸に要望があった。町の希望だと。被災地を巡っていた松下氏が届ける現地の話は、なるべく聞くようにしていた。ただ、現地の放射線量が低いことを確認して外したはずだ」

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