【続・証言あの時】元官房副長官・福山哲郎氏(下) 水面下、避難説明

05/08 10:15

飯舘村で開いた計画的避難区域に関する説明会で、住民の意見を聞く福山氏(中央)。右は政府原子力災害現地対策本部長だった松下忠洋氏、左は後の復興相の平野達男氏=2011年4月16日

 「2011(平成23)年3月の最終週ぐらいだ。米国の飛行機によるモニタリングを基に被ばく線量を考えると、何とかしなければならない場所があることが分かってきた」。東京電力福島第1原発事故当時、官房副長官だった福山哲郎は「計画的避難区域」と「特定避難勧奨地点」の2種類の住民避難の決定に至る背景を語り出した。

 民主党政権は、原発事故に伴い避難指示の範囲を原発から同心円状に拡大。その範囲は半径20キロに及んだ。しかし、放出された放射性物質は20キロを越え原発から北西方向に拡散、大地や山林に沈着した。福山は、中でも飯舘村と川俣町山木屋について「面的に放射線量が高く、被ばくが懸念された」と振り返る。

 避難の方法を議論したのは、3月末に官邸で編成された原子力被災者生活支援チームだった。基準としたのは、国際放射線防護委員会(ICRP)が緊急時に管理すべきとした被ばく線量の下限、年間20ミリシーベルトだった。「1年いなければ20ミリシーベルトは超えない」という考えで、飯舘村などを段階的避難を求める「計画的避難区域」とする方針を固めた。

 福山は正式発表前日の4月10日、それぞれの首長に水面下で方針を伝える役割を担った。飯舘村長の菅野典雄や川俣町長の古川道郎は「住民にどう説明するのか」などと訴えた。福山は怒りや悲しみ、悔しさが入り交じる首長らの思いをひたすら受け止めたという。

 次に課題になったのはその他の地域に点在する、局所的に放射線量が高い「ホットスポット」だった。官邸のチームは「面ではなく点」という認識で、世帯ごとの避難を支援する「特定避難勧奨地点」という制度の創設に踏み切る。伊達市などが対象で、現場では指定の有無によって地域社会に深刻な分断が生まれた。

 福島市や郡山市、二本松市にも放射線量が高い場所があった。福山は「面で高いかというとそうではないし、いち早く除染をさせていただくことで判断した」と振り返る。ただ、県庁所在地の福島市については、県側と「原発事故収束と災害復旧に対し、県庁の機能は大事だという話をよくしていた」と語り、放射線量の状況に加えて、何らかの別の配慮があったことをにじませた。
 福山は川俣町長の古川の人柄に心服し、政府の事故調査・検証委員会への参加を依頼するなど交流を深めた。親交は、福山の官房副長官退任後も続いた。古川は震災10年を見届けるように22年1月に永眠する。福山は川俣まで駆け付け、別れを告げた。福山は今、「原発に依存しない社会をつくると言い続けることが、私の役割です」と心に誓う。(文中敬称略)

 【福山哲郎元官房副長官インタビュー】

 東京電力福島第1原発事故当時、官房副長官を務めていた福山哲郎氏(60)に、「計画的避難区域」と「特定避難勧奨地点」が設定された経緯などを聞いた。

 計画的避難、支援チームで議論方向性決めた

 ―政府は第1原発から半径20キロまで、同心円状に避難指示を出したが、その先にも放射線量が高い地域があった。状況を把握したきっかけは何だったか。
 「(2011年)3月の最終週ぐらいに米国の飛行機による放射線量の計測結果が出て、飯舘村や川俣町の方が線量が高くなっていることが分かった。1年間居続けるとかなり被ばくするような量なので、何とかしなければいけないとなった」

 ―避難の在り方を議論した場はどこだったか。
 「各役所の局長クラスで3月29日に(政府の原子力災害対策本部の下に)設置した原子力被災者生活支援チームだ。放射線量を測定し、高い所の住民には避難をお願いしなければいけないという方向性を確認した。(当時の)官房長官の枝野幸男氏や首相の菅直人氏に相談し、実施するという形だった」

 ―飯舘村などは「計画的避難区域」となったが、判断基準はどう決めたのか。
 「放射線量の基準については、医療専門家チームの意見を聞いて決めた。国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた緊急時の放射線量(の被ばく管理の)範囲が、年間20ミリシーベルトから100ミリシーベルトだった。その下限の年間20ミリシーベルトを計画的避難区域の基準にした」
 「年間20ミリシーベルトを1年間で(被ばくする状況を想定して、1時間の空間放射線量として)割り、現状の放射線量を当てはめたとき、飯舘村と川俣町山木屋地区が該当した。逆にいうと、1年間いなければ(年間20ミリの)被ばくはないので、1カ月ほど時間をかけて避難を計画的にやってくださいと。その間に政府として避難場所の確保に努めることにした」

 ―支援チームを巡っては、後の復興相の平野達男氏と後の復興庁事務次官の岡本全勝氏が、自分たちが担当していた地震・津波の被災者支援チーム(3月中旬の設置)に比べ、設置が遅かったと証言している。
 「遅れたわけじゃない。当時は被ばくのリスクがあると考えていた。原子炉への注水が落ち着き、東電や原子力安全・保安院が爆発の心配はないという見立てになった。そこで具体的な原発被災者の生活支援に入ろうと、29日にスタートしたのが実態だ」
 「チーム設置の準備会合を開いた時、すでに活動を始めていた岡本氏らに参加してもらった。しかし、夜遅くの会議なのに保安院はだらだらと説明を続けた」
 「そこで、岡本氏が『何をやるのか分からない会議をしてもらったら困る』『(原子力規制に責任があった)保安院や(経済産業省の)資源エネルギー庁から、事故に対するおわびやねぎらいの言葉が一言もないのは理解に苦しむ。そんなものがほしいわけじゃないが、われわれには仕事がある。時間をつくって来ているんだ』と注意した。彼らは何も言えなかった」

 住民生活への影響からお願いした特定勧奨地点

 ―飯舘村と南相馬市、川俣町山木屋を計画的避難区域にする方針を正式発表する前日の4月10日、当時の3人の首長に会って説明したと聞いている。
 「その通り。まず福島市の知事公館で飯舘村長の菅野典雄氏に会った。その後に南相馬市で市長の桜井勝延氏、川俣町で町長の古川道郎氏に会う予定だった」

 ―菅野氏は全村避難を切り出され、2時間話し合ったと証言している。
 「そうだ。菅野氏の後ろに(2人が)待っておられたけど、(菅野氏に)納得していただかなければならないから話を途中で切ることはできなかった。菅野氏は『村がなくなってしまう。住民にとても説明できない』と、怒りや悲しみ、悔しさも全部含めて私に言ってきた」
 「菅野氏がすごかったのは、その場で『避難エリアを線量の高い所と低い所で分けられないか』と言ったことだ。後に『高齢者は避難で移動すると本当に弱ってしまうので、特別養護老人ホームは何とかできないか。工場も動かしたい』といった提案を受けた」

 ―その後どうしたのか。
 「菅野氏の後に桜井氏に会い、川俣町に着いたころにはだいぶ遅くなっていた。古川氏には『浜通りから避難してきた人を町を挙げて助けた自分たちが、どうして1カ月もたってから避難しなければいけないんだ。そんなことがあるのか』と言われた。本当にたまらない気持ちだった」
 「3人からは『モニタリングを細かく、回数を多くやってほしい』と強く言われた。放射線量を細かく測った上で、本当に高いからここは(避難しないと)駄目なんだと言わないと、住民は納得しないからということだった」

 ―葛尾村や浪江町の津島地区も計画的避難区域になったが、他に指定する考えはなかったのか。
 「放射線量が面的に高い所が、それらの地域だった」

 ―伊達市や南相馬市などに適用された「特定避難勧奨地点」について聞きたい。南相馬市長の桜井氏は、5月に福山氏から「県内に(放射線量の高い)ホットスポットが点在しています。どうしたらいいですか」と助言を求められたと証言している。
 「言っていると思う。南相馬市や伊達市には高い所があったが、そこは点だった。100メートル離れただけで線量が高い家、低い家に分かれていた。『何でこんなに近いのに違うのか』と何回も文部科学省の職員に聞いたぐらいだ。『風向きや地形だと思います』という答えだった」

 ―では、どのように対応したのか。
 「放っておいたら年間20ミリシーベルトの被ばく線量を超えてしまう。ただ、飯舘村などの避難を通じて、面の形の避難がいかに住民の生活にとって(影響が)大きいか分かった。本当に細かく線量を測って、低い所はなるべく早く除染して居続けてもらおうと。線量が高い所は、やはり線量をお見せしながら避難していただこうと。だから(世帯ごとの)特定避難勧奨地点としてお願いした」

 ―当時、福島市や郡山市、二本松市でも放射線量の高い所があった。
 「あった」

 ―線量が高く避難させてほしいと声が上がった。避難は考えなかったのか。
 「考えなかった。福島市の場合、原発事故の収束と復旧で県庁の機能が大事だということを(当時の)知事の佐藤雄平氏らと話をしていたし、本当に(局地的ではなく)面で高いのかというとそうではなかった。若干高い所はあったが、そこは早く除染をしようということで判断させていただいた。副知事だった内堀雅雄氏とかなりやったと思う」

 ―伊達市や南相馬市とは違うということか。
 「違った」

 ―県との関係はどうだったのか。
 「雄平さんと言ってしまうが、佐藤氏とは参院議員の当選同期で仲が良かった。事故後もよく佐藤氏から官邸の私に電話がかかってきて、本音で話をした」
 「内堀氏は知事を献身的にサポートしていた。私と内堀氏で調整し『じゃあこの方向で総理と知事に確認しましょうか』という話をよくやった。副知事だった松本友作氏は、市町村長との対応が多かったと思う。政府が市町村に何かを説明するときなどには松本氏(が相談相手)だった」

 反対、推進ではなく原発に依存しない社会を

 ―川俣町長の古川氏は、福山氏から政府の事故調査・検証委員会の委員になってほしいと電話で打診されたと証言している。
 「電話をした。古川氏には(川俣町)山木屋地区の避難で冷静な判断をいただいた。事故調には、住民と直接向き合っている首長に入ってもらった方が現場の苦しい声は伝わるだろうと思い、古川氏にお願いした」
 「古川氏はしょっちゅう連絡をくれた。町長を退かれてからの方が多かったかな。古川氏は先日(22年1月)亡くなられた。私は国会があったので告別式には行けなかったけれど告別式の前に自宅に行って、あいさつをしてきた」

 ―震災と原発事故から11年が経過した。今はどのような思いを持っているか。
 「リスクがある中、首都圏の電気を福島の原発でカバーするようなやり方は間違っていた。反原発や原発推進の二項対立の議論から一日も早く抜け出し、原発に依存しない社会を考えなければいけない。それが福島の皆さんと関わらせていただいた政治家としての私の役割だ。今も言い続けている」

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