県内でスポーツに汗を流す人々に、大舞台で活躍できる可能性を示す快挙だ。2人の健闘に心から敬意を表したい。
パリ・パラリンピックの車いすラグビー決勝で、橋本勝也選手(三春町出身)を擁する日本が米国を48―41で下し、初優勝を果たした。橋本選手はチーム最多の19点を挙げ、チームを引っ張った。県勢としては、1964年の東京大会の卓球ダブルスの猪狩靖典・渡部藤男組以来60年ぶりとなる夏季大会での金メダルだ。
目を見張るのは、3年前の東京大会を終えてからの成長ぶりだ。競技に専念できる環境を求め、三春町役場を退職し、平日は地元でトレーニングを積み、週末には都内でトップ選手らと練習する生活を続けた。持ち前の機動力に加え、ゲームメークなどに磨きをかけ、出場機会増加につなげた。現状を変えることで活路を広げ、栄冠を勝ち取った行動力は見事だ。
橋本選手を奮起させたのは、出場機会が少なかった東京大会で、今大会も46歳で出場の池崎大輔選手から言われた「悔しかっただろ。待っているから、はい上がってこい」との言葉だったという。22歳の橋本選手には、池崎選手と同様、後輩を引っ張りながら、長く活躍する選手へと成長を続けてもらいたい。
ボッチャ個人戦女子(脳性まひBC1)では、38歳で初出場の遠藤裕美選手(福島市出身)が、3位決定戦でバミューダ諸島の選手を7―0で退け、銅メダルを勝ち取った。同競技個人戦の日本人女子選手として初のメダル獲得だ。
3位決定戦では、コート奥までボールを投げ入れる「ロングスロー」が勝利を引き寄せる原動力となった。東京大会で代表入りを逃して以降、筋力強化などにより、精度を高めてきたことが、大舞台での活躍につながった。
競技を始めたのは20代半ばと遅かった。試合後の「時間はかかっても、輝けるものは取れる」との言葉は障害者、健常者を問わず、多くの人を勇気づけるものだ。
競技中のアシスタントを務めた母さとみさん、父芳文さんの普段の練習でのサポートが、遠藤選手を輝かせる役割を果たした。地元の福島市は日本ボッチャ協会と協定を結び、障害者スポーツ促進の核として環境整備を進めており、遠藤選手は市内の合宿などで腕を磨いた。今回の銅メダルは、障害者スポーツには行政を含めた周囲の協力が大切であることも示すものだろう。
続いて行われる団体戦での活躍も楽しみだ。